説教 1月14日 「争わず、叫ばず、粛々と」

聖書 マタイによる福音書12章14 節~21節

ここは、主イエスが安息日に礼拝が行われる会堂に入り、そこにいた手の萎えた人を癒したので、聖なる安息日を破ったと責められたという話に続きます。それに対して主は「人の子が安息日の主なのだ」(八節)と言われました。「人の子」とは、預言者ダニエルに神が与えた幻に現れた終わりの日に神から遣わされて、獣のように力をもって人々を食い荒らす権力の支配から人間に神から与えられた尊厳を取り戻す王のことです。主はその様な王として、片手の萎えた一人の人に寄り添い、手を伸ばしてごらんと、と語りかけ、安息日の主として行動されました。この行動は、ユダヤを支配していた律法学者たちの殺意を買いました。彼らは、本来神からあたえられるべき安らぎと命の輝きのための安息日律法の形式を絶対化して権力支配の道具として振りかざしていたのです。すると主の行動は、彼らには、許しがたい不遜な律法違反になってしまいます。主イエスは、彼らの怒りと殺意を知り、そこを去られました。しかし、人間に神か与えられる輝きを回復するその神の国の御業をやめられませんでした。「多くの人がついてきたので、彼らを皆いやされた」のです。主は、その業を黙々と続けられました。ただ、自分のことが人々に知られないようにされたのです。それは、人々が癒しを来るべき神の国のしるしとして、自分の罪を悔い改めて、神の愛に生きる者る者となるのでなく、その癒す力を崇拝するようになることのないためです。だから主イエスは、ご自分が十字架について殺されそして甦るまで、ご自分がメシアであることを人々に知られようとされなかったのです。マタイはそのイエスの佇まいに、預言者イザヤが、「主の僕」についての神の言葉を伝えた言葉の実現を見て、その言葉を反復して語るのです。「見よ、私が選んだ僕、彼は争わず叫ばず、彼が正義に勝ちを得させる時まで、痛められた葦をおることなく、 煙っている灯心を消すこともない」と。このわたしたちの世界でも、わたしたちみんなの罪、その自己中心の生き方のゆえに、人が人を傷つけ、苦しめることが、至る所に起こっています。また私たちのまわりの身近な世界でも傷ついた人々、心の折れそうになっている人々との出会いがあります。私たちも同じ弱く傷ついた者として、この主のふるまいによる慰めによって、共に支えられ支えあう歩みが与えられています。応えてゆきましょう。感謝です。

2018年02月02日