説教 1月7日 「安息日こそ命を助けるよい業を」

聖書 マタイによる福音書12章9節~14節

11月末に中断していたマタイによる福音書の講解説教を続けます。十戒の第四戒に「安息日を覚えて聖とせよ、六日の間働いてあなたのすべての業をせよ、七日はあなたの神、主の安息日であるから何の業もしてはならない。」とある安息日律法を守ることはユダヤ人にとって、命がけのことでありました。しかし、主イエスは律法を振りかざして命の営みに立ちはだかろうとする律法学者に対して、激しく対決されました。マタイの12章1~8節では、弟子たちがひもじかったので麦畑を通りながら穂を摘んで食べていたのを「安息日の収穫労働だ」として非難したのに対して、主が激しく反論したことに示される通りです。決めの言葉は、「人の子が安息日の主なのだ」という言葉です。「人の子とは」とはダニエル書7章でダニエルが神から幻を与えられて見た、終わりの時に現れる王のことです。その王は、神に招かれて、地上のすべての非人間的な残忍な獣のように力で支配する諸権力の上に据えられ、それらに勝利し、人々に神からくる栄光の輝きと、平和をもたらすのです。主イエス自身、その様な「人の子」として来られました。そして、神から与えられた使命を密かに覚えつつ、安息日こそは、人間が終わりの日に、いや今既に、神の栄光の輝きと自由を受けて、喜こばしく生き生きと生きるものとなる、既にその時が来ていることの徴なのだ、と言われたのです。今日読んだところは、主イエスがまさにその安息日の主、人の子として行動された出来事が記されているのです。すなわち、主が安息日の礼拝が行われる会堂に入ると、そこに片手の萎えた「人間」がいました。人々は、癒しでもしたら、律法違反で訴えるぞと主イエスを脅迫しています。しかし、主は、羊を飼う人間だったら、安息日に羊が穴に落ちたら助けるよね、人間は羊よりはるかに大切じゃないか、当たり前だろ、と淡々と言われて、あの片手の萎えた「人間」に向って、これも当たり前のように、さぁ、手を伸ばしてごらん、と言われるのです。するとその人は、驚くべきことにぐっと手を伸ばし、その手はもう片方と同じように、元気になった、ということです。「手を伸ばす」ということは、人間が人間としての輝きや自由を取り戻すということです。この主の言葉は、私たち、内外の事情に押し流されて、神さまに向って祈りの手を伸ばすことも、他者に手をさしのべることもできなくなっている者にも語られているのではないでしょうか。

2018年02月02日