説教 12月31日 「平和の主への捧げもの」

聖書 マタイによる福音書2章1~12節

神の御子は、生まれられて、飼い葉桶に寝かされました。神ご自身が、この世の惨めさや貧しさを負われ、ご自身のものとされたのです。まさに、インマヌエル(神われらと共に)ということの徴が、神ご自身によってあたえられたのです。人のどんな罪深さも、敵意も、どんな貧しさも、悲惨さもこのインマヌエルを消すことはできません。どんなに人が神に逆らっても、神に逆らっているその罪のまま、神に引き受けられ罪を根絶され、神を知らされてきたユダヤ人も神を知らなかった異邦人も、神の子として、圧倒的に神の恵みと輝きの中におかれているのです。かつて預言者イザヤは言いました。「主の家の山はもろもろの山のかしらとして固く立ち、諸々の峰よりも高くそびえ、すべての国はこれに流れて来ていう。『さあ、われわれは主の山に登ろう。ヤコブの神の家に行こう。われわれはその道に歩もう』」当時神に逆らい神の民イスラエルを苦しめ、敵であった国の人々が、やがて神の家に来て共に神を仰ぎ、その教えに聴くときがくる、というこの預言の言葉が今や成就する時が来たのです。マタイ福音書二章は、そのことを示す不思議な出来事を私たちに告げています。ヘロデが王であったイエスの誕生の時、エルサレムに、東の国の博士たちが来て、ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられますか、私たちは東の方でその星を見たので、その方を拝みに来たのです、といったというのです。かつて東のほうからは異邦人の国々の軍隊が来てユダヤを苦しめました。しかし、七百年を経た今、おなじ東の国々の王に仕える高位の学者ともあろう人々が来て、あのときユダヤに神が遣わすと約束していたメシア、ユダヤ人の王にして世界の王である方がそちらで生まれたはずだ、私たちはその星を見たので、拝みに来たというのです。王の地位は自分のもの、とその権益と権力をほしいままにしているヘロデとその支配に漫然と漬かり切っているエルサレムの住民は不安を覚え、ヘロデはこのメシアを殺そうとひそかに企みます。しかし博士たちは、非常な喜びをもって、貧しい小さな嬰児として来ているメシアにひざまずき、自分たちをささげ、嬰児によって神が示された世界に和解と平和をもたらす道に従う思いを新たにするのです。私たちは、戦争への危機をはらむ今のとき、この神が下さった嬰児の前に、何をもって自分をささげましょうか。 

2018年01月16日