聖書個所は、ルカによる福音書11章45節~54節
昔イエス様の時代のユダヤは、ローマ帝国という巨大な帝国の支配のもとにありましたが、内政は、祭司と律法の専門家と長老からなる会議によって自治が敷かれていました。その中で律法の専門家は、神の言葉の証しである聖書の言葉=トーラー(律法)を解釈して、律法に基づいて、神殿での礼拝や儀式から日常生活、政治、社会の日常の領域の領域に至るまで、その正しい在り方を示す役割を与えられていて、一定の訓練を経て資格を与えられる専門家集団で大きな権威を与えられていました。そして律法の専門家に最も影響力をもっていた学派が、ファリサイ派でありました。しかしファリサイ派の律法学者は、律法の文字を振りかざして、律法を守る者は祝福されるが、守らない者は呪われている、として、色々な内面的、外面的な個々人の事情を考慮することなく、律法通りに生活できない人々を、「地の民」とよび、貶め差別していました。
その日主イエスはあるファリサイ派の人の小さな食事会に招かれていましたが、食事の前に体を清めなかったので、非難されました。彼らが食前に体を清めるのは、世の罪の汚れが食べ物と一緒に体に入ってくるのを防ごうとするためです。主イエスは彼に、「外からくる汚れを怖れているあなた自身が、強欲と悪意に満ちているではないか、むしろあなたに神から与えられている良きものを隣人に施しなさい、そうすればあなたにとってすべては清い者となるであろう、」と語り、さらに、あなたが今踏みしめていると思っている地面は朽ち行く死者の骨でいっぱいだ、と喝破されました。
それを聞いた律法の専門家が怒り始めました。「そんなこと言えば、私たちをも侮辱することになります。」我々を誰だと思っているのだ、許せない、といきり立ったのです。主イエスは、ひるむことなく言われました。「あなた方律法の専門家に災いあれ、あなた方は、人には背負いきれないほどの重荷を負わせながら、自分では、その重荷に指一本も触れようとしない。」本来律法は、神が人をご自身の恵みと祝福へと招く言葉なのに、彼らは自分を神の位置におき律法の文字を人を裁き、切り捨て苦しめる道具に変えてしまいました。人類の歴史は、このように神に背を向け、自分を神として高ぶる者が、神から与えられた人の尊厳と命を踏みにじってきた悲惨な歴史であります。主イエス・キリストがその罪を引き受けて十字架に死んでそして甦り、その歴史の終わりとなられたのです。