説教 12月17日 「『悔い改めよ』との洗礼者と主の声」

聖書個所 マルコによる福音書1章1節~5節

今日アドベント第3主日は、洗礼者ヨハネを覚える日です。洗礼者ヨハネは主イエスの登場する直前にユダ地方の曠野に現れ、ユダヤの人々に神の国が近づいたとこと、全ての人は神の怒りの裁きの前に立たなければならないことを人々に告げ、「悔い改めよ」と呼びかけ、ヨルダン川の水によって洗礼を行いました。悔い改めよ、とは、神に背を向けたあなたの自己中心,自己欲望追求の生きかたを捨てて、創り主なる神に立ち返って神と共に生きる新しい生き方を学べということです。このヨハネを、福音書は、預言者イザヤのいう「『主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ』と荒野で呼ばわる者の声であり、「見よ、わたしは使いをあなたの先に遣わし、あなたの道を整えさせるであろう」と言われている人だといいます。ただこの後のほうの言葉は、イザヤ書には出てきません。これはマラキ書三章に一節に出てくることばで、その使いの者とは、神から遣わされて、神の裁きを告げ、人々に神の国への備えをなさせる人物です。マラキ書三章二節には、「その来る日はだれもそのままで耐ええない、彼は吹き分けて不純物を取り去る火のようである。」と言います。彼は、人が神に対しても、人に対しても不誠実な様を明るみに出し、全ての人が神の前に罪びとであることを現わす、と。その具体的な例として「占い者、いつわりの誓いをする者、姦淫する者」といったことから、その人の社会的なあり方、特に小さい人々、貧しい人々に対するかかわりに及びます。「雇っている人の賃金をかすめ、やもめ、孤児を虐げ、寄留の他国人をおしのけ、わたしを恐れない者どもにむかって、わたしは速やかに証しを立てる、と。しかし、そのうえで、主なる神はこういわれるというのです。「しかし、主なる私は変ることがない、と。愛において変わることがないということです。あなたがたは、わたしに不誠実を重ねる。しかし、わたしは、あなたがたに誠実であり続ける。わたしはあなたを離れない。だから、わたしに帰れ、わたしはあなた方に帰ろうと万軍の主なる神は言われる、というのです。福音書の記者は、洗礼者ヨハネはこの神からの使いのようであった、また、あのイザヤ書四〇章の曠野で呼ばわる者の声あった、といいます。しかし、こうしてヨハネは、悔い改めを人々呼びかけたが、それを実現することは人にはできないことを知っていた、だからこそ、ヨハネは、それを実現し世を新しくする神ご自身がこの世に来るのを待ち望み、民衆と共に、自分のところに洗礼を受けに来た主イエスの中に、水ではなく霊によって洗礼を授ける神ご自身の到来を現に見て、畏れつつ、この人こそその人だと喜び叫んだ、というのです。

2017年12月30日