説教 12月10日 「聖書に導かれる人生の修練」

テモテへの第2の手紙3章16節~4章5節

アドベントは、単に過去のイエス・キリストの誕生を待ち望むときであるだけでなく、あの時お出でになり、私たちの罪を負って十字架の上に死んで、私たちから罪を根こそぎ取り除いて終わりとされて甦られた主が、再び来られ、罪の世を最後決定的・究極的に裁いて終わりとされるその時を待ち望む時であります。だから、罪の世はもう終わりとされていますが、まだ完全に終わりではなく、イエス・キリストは、地上から去って天に昇られ、地上では、古い世がまだ終わらないまま残っています。私たちは、なお神に逆らう朽ちゆく体をもち、世界はなお神に逆らう権力や富が支配しているかのようであります。とはいっても救いはもうキリストによって始められており、やがてそのキリストが再び来られ、世を究極的にさばいて、終わりとされるのです。私たち教会は、そのことを知らされ、その時を待ち望んでいるのです。そこで、私たちは、来るべきイエス・キリストの到来に向って、神の国の市民にふさわしくなるために、なすべき使命・課題が与えられています。それは、日々自分の罪を悔い改めて新しくされ、苦難に耐え忍び、神をあおぎ、また隣人に仕えて生きるための訓練であり、もう一つは、イエス・キリストによって、全ての人に与えられている神の国の福音を、宣べ伝えて、知らせるという課題です。今日読んだ、テモテの第二の手紙3章16節以下では、晩年に達したパウロ、今も投獄や拷問を受けて、いつ命を落とすか分らない身の上で福音宣教に励んでいるパウロが、テモテという自分についてきている年若い異邦人(ギリシャ人)である、母親の代から二代目の弟子に、自分の後を担ってくれる期待を込めて、教え諭しているのです。どうか、日々、主イエスによって罪を取り除かれた者にふさわしく歩きなさい。自分の思いや欲望に流されず、神を仰ぎ、人を愛して歩み続け、その歩みのために神があなたに課す訓練を受けて成長し続けなさい。主が来られようとしているこの時は、同時に人々の罪が露わにされる時である。人々は自分のことしか考えなくなるし、お金を愛する者、高慢な者、神をそしり、親に逆らうものになる。そういうわけで、色々な試練に耐え、訓練を受けて成長するために、何よりも、日々聖書のみ言葉に導かれていなさいというのです。「聖書は、神の霊感を受けて書かれた者であって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」と。聖書の証人たちは、神の霊を受けて命を懸けて神の言葉を語っています。私たちも、日々同じ神の霊を受けて聖書を読み味わいつづけましょう。

2017年12月25日