説教 11月26日 「安息日の主」 

聖書 出エジプト記31章12~15節  マタイによる福音書12章1節~8節

主イエスが登場したユダヤの社会は、律法が支配する社会でした。律法は、神の言葉で、人を神の恵みに応えていきるように促すものでよいものです。ところが、それを解釈適用する人間がが、神の御心に従って用いないなら、それはしばしば、民衆を抑圧するもの、命を生かすものではなくて、命を殺すものとして機能します。主イエスがユダヤの地に来られたころ、当時の律法学者の手にかかって、律法はそのようなものになっていました。「重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と人々を招かれた主イエスは、今やそのような律法の支配に挑む方として、私たちの前に登場されます。安息日の律法をもって咎めてくる律法学者に主は対決されます。ある日弟子たちと麦畑の中を通っていた時、弟子たちは、実った麦をむしり取って食べていました。すると律法学者たちが、「なぜ安息日にしてはならないことをするのか」と咎めました。ユダヤの律法は麦畑の麦をむしり取って食べること自体を禁じていません。それは貧しい人々や旅人のために許されたことであったのです。律法学者が咎めたのも、そのことではなく、安息日にそれをしたことが、収穫労働にあたるのでいけないということであったのです。ユダヤの律法の基本は十戒の中に示されています。十戒は、神が、エジプトの奴隷となっていたご自身の民、イスラエルのうめきを聞いて、モーセを指導者に立てて、イスラエルをエジプトから脱出させて、彼らの父祖たちに約束していたカナンの地目指して旅立った時、彼らが神の民として神の前に歩む道を示した十の戒めからなるものです。その前文として「私はあなたの神・主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者」という神の愛の自己告知があり、だから、真実の神であるわたしのみを神としてあがめよ、と言い、また、殺すな、盗むな、と、同じ神のもの、隣人を大切にせよと命じるものであって、その中に、「安息日を覚えて聖とせよ。六日の間働いて、七日目は、主の安息であるから何の業もしてはならない」との定めがあるのです。それは、神の民が、自分の業におぼれ、創造主なる神を忘れて、自分が世界の主であるかのような妄想に陥って暗闇に迷わないために、その日は、全ての自分の業をやめて休み、神との関係を確かめる日としなさい、ということだったのです。だからこそ、イスラエル=ユダヤ人は安息日を命にも代えて大切にしました。それは命を支える命より大切なものを覚えることだからです。そこには主が言われるように、憐れみの神の思いが、込められています。それを飢えた者が、麦の穂を摘むのを禁じるために用いるとは、何という倒錯でしょうか。

2017年12月25日