説教 11月19日 「重荷を負う者への主の招き」

聖書 マタイによる福音書11章28節~30節

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。」
主はわたしたち人類がいたるところで重荷を負うて苦労していることを、つぶさにご存じであります。わたしたちは、職場の労働現場で、自分の体の病気や患いによって苦しみ疲れ、貧乏で疲れ、人間関係で疲れ、自分の失敗や過ちが気になって疲れてしまいます。しかし、主は、大丈夫、私のところに来なさい、さっぱりとなってでなくていい、ボロボロのそのまま私のところに来なさい、わたしが、あなたを休ませてあげる、と言われるのです。わたしこそあなたを休ませるものなのだ、と。なぜそう言われるのか、どのようにして主はわたしたちを休ませて下さるのか、それは「わたしは柔和で、心のへりくだった者だから」という言葉の中にしめされています。それは、そのままでいい、ということでもありますが、それだけでない、むしろ主イエスご自身が来て下さる、全能の父なる神の力をもって来て、わたしたちが疲れ切って命の糸がきれかかっているところに、ご自分を低くしてきてわたしたちの命の糸をつなぎ、わたしたちを支え担って捕まえてくださるからです。どんなに悲惨なところにも主はに来て、ひとりひとりにわたしのところに来なさい、と招いてくださるのです。だから私たちに必要なのは、ただ、自分の身を自分の手から離して、その招いてくださる主の御手に丸投げしてゆだねることだけなのです。それはまったく神の側からの恵であり、わたしたちの業によるのではありません。しかし、それは何もないところに置かれるのではなくて、主イエスと共に神の子とされることですから、今までのような重荷ではありませんが、わたしたちは、そこで神の御子イエスと共に、神の子らとして生きる新しい人生を与えられ、始めるようにと新しいくびきに結び付けられるということになります。わたしたちは、主イエスのもとに来ることによって、父なる神の子として神とまた御子なる主イエスと離れがたく結ばれたものとなり、そのくびきにくくりつけられることによって、重荷は主に引き受けられ軽くされ、また主を通して人類のすべての人々と、兄弟として連帯関係でむすばれるのです。なぜなら、主が全ての人の長子・兄弟となられ、全ての人の重荷を負うためにこられ、全ての人の主として、すべて重荷を負うて苦労している者よ、わたしのところのきなさいとまねいておられるからです。

2017年12月25日