説教 11月12日  「神のまことはいと小さき者に」

聖書 マタイによる福音書 11章25節~27節

「盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病の人は清まり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」そう主イエスは、ご自分を通して、社会の最底辺であえぐ貧しい人々の間でなされた驚くべき神の御業を伝えています。神の恵み支配が満ち満ちるときは、もうすぐそこまで来ているのです。主イエスは、それなのに神の恵みを受け入れて新しい生き方を始めるのでなく、相も変わらず、神に背を向けて、自分の富や力におごり高ぶっているガリラヤの町々に激しく神の怒りの言葉、わざわい!を告げました。しかし、まさにその時、主イエスは、静かに天をみあげて体いっぱいに大きく息を吸うかのようにして、声をあげて言われるのです。「父よ、天と地の主よ。私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者から隠され、幼き者にあらわされました。そうです。父よ、こうして 御心にかなったことが起こったのです。」ここには何が言われているでしょうか。その富や力におごり高ぶる人々は、自分の足元にいる貧しい人々がみえていません。従って、その人々の間に臨み給い、彼らを輝かせて立ち上らせる神のまこと、神の恵みの御業も見えません、神は、彼らからご自身の恵みの満ち満ちているものを隠されるのです。彼らの心は、地上の富や力、知恵や力へのおごりや欲望でいっぱいなので、この世の富や力よりもはるかに偉大で輝きに満ちた神の恵みの富をいれる余地がないのです。しかし、神を離れ人々との連帯を離れて、自分の手に独り占めにした力や富が究極的に何の意味があるでしょうか。それらは、過ぎゆくもの、死と共に失われてしまうものです。彼らがそのような人生しかもちえないということ自体、神の裁きだということができるでしょう。しかし、神は、その恵みとまことをこの世の知恵ある者や賢い者に隠して、この世の幼い者、小さい者たち、取るに足らないものとされている人々に現わし給う、主イエスは、富や力や知恵におごり高ぶる町々に神の裁きを告げながら、父なる神を見上げ、このことを改めて悟り、御業をほめたたえ、感謝をささげるのです。神の国は、この世の小さい者たち、低くされた人たちのところから始まります。私たちも、この小さきものと共に小さくされないなら、神の恵みを知ることは永遠にないでしょう。事実私たち自身、己の小ささを覚えずして恵みの信仰に入った者がいるでしょうか。

2017年12月25日