説教10月29日 「使徒信条講解ー神の独り子」

聖書 イザヤ書59章12節~17節   ヨハネによる福音書1章14節~18節

使徒信条は、父、子、聖霊という三つの在り方で私たちにかかわってこられる神として神を告白しています。父なる神は、全宇宙を超えて高きにいます大いなる神であり、わたしたちに全能の父の愛をもってかかわってこられる神です。大いなる父の愛をもって神は、ご自分の傍らに、万物を無から有へともたらされました。そのただ中に特に私たち人間を、ご自身の似姿にお造りになりました。このような神の愛を私たちは知ることはできません。ただ神ご自身であり、神から来て人の肉をとられた神の独り子において、神は全能の父としてご自身を現わされたのです。その神の独り子とはイエス・キリストのことです。つまり、神はイエス・キリストにおいてご自身を徹底的に低くされ、私たちが最低の見捨てられた状況にあっても、わたしはあなたの神、わたしはあなたを愛する、あなたはわたしに貴いと語りかけて下さる神としてご自身を示されました。逆らい刃向かう私たちをそのまま担い取って、わたしたちを、友、兄弟、僕とまでなって下さったのであります。だからこそ、だれもその神の愛から離れられない、おそるべき驚くべき神であります。そのような神がどこにおられるでしょうか。そのように神は御子として私たちに歩み寄り言葉をかけて下さいますから、福音書記者は、御子なる神を「み言葉」と言って、「み言葉は神と共にあった、み言葉は神であった」と語るのです。そして万物、なによりも私たち自身は、この神のみ言葉、神の愛の語りかけによって、できたのであり、一瞬一瞬存在し生きるのです。その言葉には死人をも甦らせる命があり、罪の闇をも照らす光が輝きます。その神のみ言葉が、肉をとって目に見える姿となって現れた方、それがイエス。キリストなのだ、私たちはその栄光を見た、恵みとまことに満ちていたと彼は語るのです。そして私たちは、その満ち満ちている者の中から受け、恵みに恵みに加えられたと。たしかに律法は、モーセを通してユダヤ人に、また人類に、人が神のみを神としてあがめるべきこと、人は互いに大切にしあうべきことを教えましたが、それを聞く私たちは、神に背く自己中心の罪にまみれていて神の教えを満たすことはできません。ただ神の御子イエス・キリストによる体当たりの恵みとまことが必要であった、というのです。「恵みとまことはまさにイエス・キリストを通して来た」のです。宗教改革500年記念日を迎えますが、これこそが改革者たちが、強調した核心点であったのです。

2017年12月25日