説教10月22日 「この朽ちるものが朽ちないものを」

 

聖書 コリント人への第1の手紙15章50節~59節

10月22日、福岡社家町教会では、死と葬儀についての懇談会を行い、一緒に、死と永遠の命について考え、また葬儀の在り方について、語り合いました。そして、その日の礼拝説教を、この懇談会のための主題説教として行いました。その説教の内容の一部を紹介します。題は「朽ちるものが朽ちないものを」でで、聖書個所は、コリント人への第1の手紙15章50~58節です。
今日の礼拝説教は、礼拝後持たれる「死と葬儀についての懇談会」に向けてみ言葉を伝えようとするものです。わたしはここで、人の死について、神が下さる死人の復活と永遠の命についてみ言葉から語りたいと思います。人は死ぬものです。脊髄性腫瘍による麻痺の激しい痛みに一三年間耐えながら、ひたすらか神を仰ぎ、人々に心を注いで生きてこられ一九六九年に天に召された池田姉について、佐藤俊男先生は、故人が残した詩や短歌を編集して出された際、その序文にこう書かれました。「私たちは普通自己の生から自己の死を見つめる。しかし、静子さんは、自己の死から生を見つめて一三年の厳しい闘病生活であった」と。先ほど読みました旧約の詩人も、人の死の事実をみつめ、人の生のはかなさと意味を問うています。しかし、それだけではなく、神の前に人が死ぬ、神が人を死なせるとはどういうことかを問い、「われらはあなたの怒りによって消え失せ、あなたの憤りによって滅び去るのです。」「あなたは我らの不義をあなたの御顔の光の中に置かれました」というのです。そこには、人間を土のチリから造りご自分の息を注いで、生けるものとした神の限りない愛と、その愛にも己の命に背を向け、自己中心の虚無の中にさまようアダムなる人間に対する神の愛からする怒りが語られ、それが人間が、労苦に満ちたつかの間の生を与えられてやがて死ぬということの意味として語られています。しかし時至って、神は人類をその神との敵対関係と死から救うために、ご自身の御子をイエス・キリストとして送られ、御子に人類の罪を負わせて、十字架の死に渡し、それをもって人類の罪に対する怒りの裁きを全うしてその罪を一掃し、全ての人を、義にして聖なる神の子としてご自身の永遠の命のうちに受け入れ、神の支配の満ちる恵みの国を始められたのです。第一コリント一五章で使徒パウロが語るように「肉と血」は、すでに十字架の上に裁きを受け死んだもので、神の国を継ぐものではありません。しかし、その隠れた意味はこういうことなのです。神の国の勝利の終わりの日、この朽ちるものが朽ちないものを着る、新しい朽ちない命を与えられるのです。つまり、全ての人が、イエス・キリストの復活の命=霊の体=神の愛に満たされて神を仰ぎ、互に兄弟として仕えあう新しい命をうけて、生き始めるのです。葬儀とは、愛する故人を、このような約束のもとに導き給う恵みの力の御手に、感謝しつつ委ねる別れの営みと言うことができます。

 

2017年12月25日