説教7月30日「使徒信条講解(3)全能の父」

聖書:詩篇95篇3~5節、ローマ人への手紙8章31~39節

今日は使徒信条の講解の第三回で、「全能の父」という言葉から、み言葉を聞きます。使徒信条の最初の部分は、日本語訳では「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」ですが、ラテン語原文の語順でいうと、「我信ず・神を・〔=〕全能の父を・〔=〕天と地の造り主を」となります。〔=〕という記号は、続く語句が同格だ、という意味です。我信ずの「信ず」とは、わたしに、死ぬときも生きる時も、どんな時にも孤独ではない、自分をゆだねていい究極の信頼の拠り所となる方がいて下さるから、いうことで、「神を」とは、その方がわたしの神だ、ということです。そして、今日の主題は、その神は全能の父だ、ということです。「父」というのは、その神は、御子イエスが「アッパー、わが父よ」と呼ばれた方、私たちの罪を負ってかかられた十字架の死の苦しみの中からも信頼し仰いで「わが神,わが神」と呼ばわれたその方、また、十字架の死から御子イエスを死人の中からよみが えらせてくださったその方だ、ということです。その父は、罪人を憐れみ、「死人をよみがえらせ、無から有を呼び起こされる」「闇を光に変えられる」全能の方であります。その方が、どんなときにも私と共にいてくださる、わたしの拠り所となって下さる、というのです。御子イエスは、「私の父であり、あなた方の父である方」、と私たちに語って、そのことを示して下さいました。だから、使徒信条は、「我信ず、神を」の「神」とは、父である全能の方、愛・憐れみにおいて全能の方なのだと告げるのです。また、それに続いて、そのような方が、「天と地の造り主だ」というのです。神は、すべて存在する者を、全能の父の愛において、無から有へと呼び覚ますみ言葉によって造られたのです。このことは次回の使徒信条講解で学びましょう。父である神はどんな意味で憐れみの父であられるかということを、主イエスは、あの「放蕩息子のたとえ話」で語られました。その父は、父から離れ、父の財産を貰いながら、自分の欲しいままに使い果たし、没落し、飢えてさまよう弟息子をずっと忍耐して待ち続け、帰ってきたら、そのまま無条件で迎える憐れみの父であり、その父の憐れみに背を向けて、弟を受け入れず、裁き続け、そのことによって自分もまた父の愛から離れてまう寂しい兄息子にも寄り添って、語りかけられるあの父であります。その父は、ローマ書八章でパウロが語る通り、御子をわたしたちのために死に渡して、 罪人の私たちを義としてくださった、私たちの味方となることをやめられない父なのです。

2017年08月28日