説教 10月8日 「獄中の洗礼者ヨハネへの伝言」

聖書 マタイによる福音書 11章1~6節

今日箇所には、獄中の洗礼者ヨハネに、主イエスが励ましの伝言をした、という出来事が述べられています。洗礼者ヨハネといえば、神に背いた罪の世に対する神の怒りの裁きと救いの時が近いことを人々に告げ、まず神の民であるあなたが悔い改めて神に立ち返れ、と呼びかけ、その徴として、一人ひとり、ヨルダン川の水に身を沈めさせ、水から上がらせる儀式を行っていました。罪とは、個人の問題であり、かつ社会全体の問題です。権力を持つ者の横暴によって、人々が苦しめられ、心を荒廃させられ、悪がはびこる問題でもあります。軍事力という暴力ばかりにたよって安全を図ろうとする国家のもとにある社会は、暴力が支配する社会になってゆくのです。それがすでに神の怒りの裁きであり警告なのです。洗礼者ヨハネはそのことを訴えました。民衆はかれに期待をかけ、彼の洗礼を受けにきました。エリートたちも彼を畏れ、洗礼を受けに来ました。主イエスも受けに来られましたが、ヨハネは、民衆の前で、私は水で洗礼を授けるに過ぎないが、この人は神ご自身の力で、君たちに洗礼を授け、人々から根こそぎ罪を取り除く方、神が預言者を通して、送ると約束された方、聖霊と火による真の洗礼者なのだ、と証ししました。事実主が洗礼を受けられると、天から「これこそわたしの私の愛する子」と声がしました。しかし今、そのヨハネは、ヘロデ・アンティパスに捉えられて獄にいます。彼は弟子たちを主イエスのところに遣わして、あなたは本当にメシアなのですか、と問わせたということです。あの確信に満ちたヨハネはどこに行ったのでしょう。石の壁に囲まれた暗闇に閉ざされ、獄吏の虐待をうけて過ごす毎日が、彼をここまで憔悴させてしまいました。主イエスが貧しい人々の間でなさった神の国を現わす働きは、「キリストの業」といううわさとして、彼の耳に入ってくるものの、彼のおかれた苛酷な状況は何一つ変わりません。その彼に、主イエスは、ただご自身を通して現に起こっている神の御業を告げられました。「盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病の人は清まり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている」。極限状況に置かれるとどんな偉大な人も、神を見失い、自分のことで心が一杯になってしまいます。どんなに輝かしい人間の業も色あせていきます。そして、彼自身も自分からは何の力もありません。ただその彼を憐れみ彼をになって上から働かれる神の御業のみが彼に力を与えてくださいます。その御業は、彼の強いところにおいてではなく、心くじかれ、力弱くされているところにこそ、強く働かれるのです。主イエスは、全ての人が低くされ、またその低さ・弱さにおいてこそ満ち満ちてくる神の恵みに生きる、弱さにおいて互いに支えあってて生きる新しい時の到来を彼に伝えて、彼を励まされたのです。

2017年10月26日