説教 10月1日 「聖餐の広がりと深さ」

聖書 コリント人への第1の手紙 11章20~29節

今日10月第一聖日は、世界聖餐日という日です。世界中の教会、信徒が、それぞれの教会で、世界中の人たちが、民族、国境、人種差別、教派を超えて、キリストにあって一つであることを、全ての人のために裂かれたキリストの体=パンと流されたキリストの血=ぶどう酒にあずかることによって、証しする日として定められました。アジアでもヨーロッパでも、国と国、民と民が敵対し戦争が始まっていた1940年、北アメリカキリスト教教会連盟によって提唱されたものでした。聖餐は、説教と共に礼拝の大切な要素です。説教において、わたしたちは知性で、キリストを受け取りますが、聖餐において私たちは、キリストを体で受け取るのです。そして、目に見える形で、キリストが裂かれた体としてのパンと、キリストが流された血としてのぶどう酒(ぶどう汁)を分かちあうのです。こうして、キリストがわたしたちの罪、弱さを受け入れてくださったように、私たちも、互いの罪や弱さを主に会ってうけとめあう共同体であることを、聖餐において、目に見、体に感じて、確認しあうのです。教会は、その初めの時から、このような聖餐共同体でありました。「一同はひたすら、使徒の教えを守り」、つまり、イエスの直弟子たちの証しを聞いて、主を心に刻み、信徒の交わりをなし、「共にパンを裂いて」、聖餐の交わりをしたのです。今日読んだコリントの信徒の手紙の11章からも、教会が食卓の交わりであり、そのクライマックスが聖餐であったことがうかがえます。主の群れの集いは、毎日夕刻頃から始まる食卓を囲む集まりでした。ところが、その食卓が、自分たちは暇なので早くから食べ物を持ち寄って来て食べて、楽しく盛り上がる富裕な人の間でだけの交わりになって、一日の労働をやっと終えて空腹をかかえながら集会の場にかけつける貧しい人々を、空腹のまま排除する食卓になっていたので、 白けてしまい、クライマックスにくるはずの聖餐ができなくなってしまっている教会の集会の現状についてパウロは、富裕な教会員に対して、論難しているのです。そこでは、食卓の主である貧しくなられ、十字架につけられた主イエスが、わきまえられず、素通りされているからです。聖餐において、全ての人のために貧しくなられ死んで復活された主イエスの愛の世界のすべての民に届く広さと最底辺の貧しい人々にまで届く深さが、一人ひとりの体に刻まれるのです。

2017年10月20日