説教 9月24日 「使徒信条講解(5)-イエス・キリスト

聖書 ヨハネによる福音書14章1~11節

これまで、使徒信条の第一項「われは、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」からメッセージを聞いてきました。今日は第二項「我はイエス・キリストを信ず」という項に入っていきます。これまで学んだことを振り返ってみましょう。我神を信ず、とは、信じている私の思いが確かだということではなくて、わたしは確かでなくても、神という確かな方がわたしのためにいてくださる、その方に私は信頼して、私は確かとされるということです。そして、その方は全能の父、つまり愛において何ものにもまして力ある方で、その方が、天と地とすべてのものをその愛においてお造りになった、ということです。私たちは、神の存在を感じたり、想定したりすることはできるかもしれませんが。自分からは、神を、生ける方として、リアルに、具体的に知ることはできません。どうして神を、全能の父として知ったのでしょうか。それは父なる神御自身が人の肉を取り、ご自分を低くして人に寄り添う方として現わして下さったことによるのです。そのように高みおられるだけでなく、低みに来ておられる方としての神、それが御子なる神、イエス・キリストであります。しかも御子は、人の肉をとって下さっただけでなく、貧しい低く弱いマリヤという一人のガリラヤ・ナザレの若い女性を母としてその胎にやどり赤子として生まれられました。生まれて寝かせられたのは、飼い葉おけでした。全能の父であり、宇宙よりも大いなる方が、こんなに低く貧しく小さい方として、来られ、私たちの貧しさ、低さ、小ささ、弱さ、不安をご自身のものとされたのです。それは、低いわたしたちを神の恵みの御手によって高くされるために、小さい私たちを神の前に大いなるものとしてするために、貧しい私たちを神の御恵みで豊かなものとするためでありました。そして、ご自身が神を父と呼んで仰ぐだけでなく、わたしたちをご自身の兄弟とよび、父をあなた方の父として、示してくださいました。いやそれどころか、父なる神は、私たち人類が神に背き、自己中心の故に互いに苦しめあい、傷つけ傷つけあい、奪い合い殺しあっている罪という根本状態を根こそぎ取り除いてしまうために、この御子イエスに、私たちの罪を負わせて、ご自身のの怒りの裁きを引き受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせてしまわれ、死の暗闇にまで、下らされました。それ程までも神は御自分を犠牲として捨てて、低くされました。そして御子イエスをその死の暗闇から甦らせて、私たちの罪と死にも打ち勝ってくださいました。こうして神は、イエス・キリストによって愛において全能であることをお示しになったのです。私たちは、イエス・キリストなしにも確かに神の存在を漠然と予感できても、リアルに知ることはできません。御子のみが父なる神を現わされたのです。イエス・キリストを知らされる人は神を知らされるのです。

2017年10月14日