説教 3月24日 棕櫚の主日 「ロバに乗った平和の主」」

聖書:ヨハネによる福音書12章12~16節

過ぎ越しの祭りの前日、主イエスは、ご自身が十字架上で受難死されるエルサレムに入城されました。大勢の群衆が城門を入るイエスを「ホサナ、主の名によって来る者凱旋する王を歓迎して迎えました。それは主が在家の親しい支持者ラザロを死人の中から甦らせたという奇跡を知った民衆が、主を権力をもって世直しをやり遂げる王として迎えたのでした。主は咄嗟に、群衆の一人のロバを取りそれに乗って町の城門をくぐるという演出を行い、「勝利の王」らしくないユーモラスな姿をとられたのでした。
弟子たちは、後に「主が栄光を受けたとき」、その意味が、主イエスが、ゼカリヤ書9章に「シオンの娘よ、大いに喜べ、あなた方の王が、正しき柔和な王がやってくる、ロバの子に乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ」と言われた王としてエルサレムに入られたことだったと悟ったと記されています。主が「栄光を受けた時とは、主が自らご自分を敢えてユダヤの祭司長たちの手に渡し、人々の前にご自分を低くし、十字架につけられて死ぬという道を取られ、弟子たちの前でそのことをご自分が父から栄光を受けることなのだと言ってやまなかった、そのことの意味が分かった時、という意味です。
事実弟子たちは、主イエスがなぜ、あえてそのような道を突き進まれたのかわかりませんでした。主がなぜ、ご自分が弟子の一人に裏切られ祭司長や律法学者といった権力に売り渡されるままにされ、ついにご自身を逮捕する者たちが来たときも、「わたしはここにいる」と、ご自分を彼らに引き渡し、裁判で死に当たる有罪の判決をうけるままにし、さらに、彼らがご自分をローマ帝国の地方総督ピラトに訴えて、ピラトもまた、ユダヤ人の権力者たちや彼らに扇動された民衆が「十字架につけよ」と叫ぶ中、主イエスに死刑判決を行うままにされたのか、そしてなぜ主は御自分を十字架の死にゆだねて死なれたのか、そのことが分かりませんでした。ただ恐れ、絶望することしかできませんでした。しかし主イエスが死人の中から復活されて、弟子たちの前に御自身を現わされた時、それが幻や幽霊ではなく、事実あの十字架に死なれた主イエスだと聖霊によってて示された時、主イエスの死が、主が失われたことではなく、主イエスにおいて、人類の罪も死も、神の御手に引き受けられて打ち勝たれた出来事であった、主の死は主が父なる神から栄光を受けたことであった、ということも分かったのです。主の死は、全人類から罪が取り除かれ、戦争が根絶され神の平和が始まった出来事であったのです。
 主イエスはご自分の死を「多くの実を結ぶ」一粒の麦の死に譬えておられます。私たちが、主イエスの死を、神に背く私たち罪びとの死として、受け入れるとき、私たちも死人の中からの主の復活に与かり主と共に神の栄光に与かって、命の実を結ぶのです。

2024年04月03日