説教 12月8日 「旧約聖書はイエス・キリストを証しする」

聖書 ヨハネによる福音書5章36〜 40節

今日のアドベント第二主日のテーマは「旧約聖書の神の言葉」です。ヨハネ福音書の五章三九節に主はユダヤ人たちに言われます。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思っているが、この聖書はわたしについて証しするものである」と。この聖書とはユダヤ人がかの言葉を証しする書として、もっていた聖書つまり、旧約聖書にほかなりません。ユダヤ人たちは、この聖書の中に、永遠の命があると思って、旧約聖書を調べていました。しかし、彼らには、聖書の中に、主とか神とという文字をみても、その神とはとにかく偉大な者というだけで遠い漠然とした何かでありました。このちっぽけなただの人に過ぎないイエスという目の前の男が、自分にこそ永遠の命がある、父なる神は私を通してあなたがたに命を与えるのだ、というのを聞くと誇大妄想のようにしか思えませんでした。彼らの聖書の読み方は、聖書の中にある十戒をはじめ色々な戒めがかかれており、そこには人がしてよい、してはいけないという神の戒めが書いてある、その戒めを現実に営まれている生活に適用解釈して守っていけば、永遠の命に入ると思っていました。ところが、主イエスは、彼らの言う律法に真っ向から挑戦し破っていくように思えることがたくさんありました。主イエスは、律法の言葉の出どころである生ける神の御心を行ったからです。だから、主は、汚れているとして排除されていた取税人や遊女や罪人に、歩み寄り神の国の現臨を告げ、安息日であっても病める人の癒しを行うなどのことをしました。しかしそれはは彼らには許せないことでありました。主イエスのあの時の「聖書はわたしのことを証ししている」との言葉も、病気を患う人々が集まって、天使の降臨と信じられていた水の蠢動の瞬間に真っ先に水に入った人が癒されると信じられたベテスダの池のほとり38年横たわって、一度も真っ先に水に入れなかった一人の病人に歩み寄り、「床を取り上げて歩きなさい」と言われ、手を貸して癒されたのが安息日だったことに対するユダヤ人たちが非難 ことに対する応答であったのです。主イエスは、「私の父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのだ」といわれ、動じることはありませんでした。安息日律法もまたすべての人に恵み深いそのその父の働きを証しするものなのです。主イエスは、神の子として父の御業を行ったまでのことでありました。主イエスが、「私の父」と呼ばれるその方こそ、旧約聖書の神であります。その方は、主イエスにおいて、御自身が誰であるか、どのようにすべての人に関わっておられるかを現わされました。その神こそが天と地を造られ、すべての人からその罪を取り除いて、神の子とするために、アブラハムをはじめとする父祖たちを選び召し、最後にみ子主イエス・キリストを送って下さったのです。旧約聖書は全体は、この御子を証しするものなのです。

2020年05月06日