説教 12月1日 「再臨の主をあおぎ悪しき日に耐えよ」

聖書 マタイによる福音書24章 15〜 35節

今日からアドベントに入ります。アドベントは、主イエス・キリストがこの世に来られた日として祝うクリスマスを楽しみにして待つ時期として設定されていますが、実はそれは本来の大いなるアドベントの比喩であります。その本来のアドベントとは、あの二千年前に来られ、私たちの罪を引き受けて十字架の上に死んで復活され、私たちの根っこのところで罪を取り除き、私たちを主の兄弟・神の子としてくださった主イエスが再び来て、私たちがなおまだその中にいる罪の世界を裁いて全面的に滅ぼし、終りとして下さるその日に向って希望をもって歩むことを覚える時期であるのです。罪のこの世が裁かれ、終わるとき、この世はその滅ぶべき脆く残酷で醜悪な様を現わします。主イエスは弟子たちに終わりの日における神殿の全面崩壊を予言しました。また弟子たちの質問に答えて、自分こそ世界の王だと称して人々を迷わせる者たちが出るとか戦争とか災害、民同士の敵対、地震や飢饉が起こるがそれは終わりではなく終りの始まりで、主が来て神の国を実現されるまでの生みの苦しみだといい、その時あなた方はわたしの名ゆえに憎まれ、人々はあなた方を苦しめる、しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる、そしてその時こそ、神のみ国の福音は全ての民に宣べ伝えられる、と言われます。しかし、ここに主が未来のこととして語っている過酷な状況とそこでの弟子たちへの勧めは、実は福音書を生み出した教会が直面し苦しみ耐えかつ戦っている状況でありました。それは、紀元64〜70年まで続いた、ユダヤ人たちの反乱に対するローマの大軍による攻撃の最終局面を背景にしています。ユダヤ人とローマ側に立つギリシャ人を始め他の諸民族(異邦人)との互いの憎しみ・敵対が、激しくなる中で、教会は、ユダヤ人と異邦人が、共にイエス・キリストにあって同じ神を仰ぎ、互いの間の敵意の壁を乗り越えて、主にあって罪赦された<きょうだい>として、主の再臨と神の国の到来に向って、その福音を宣べ伝えつつ歩んでいたのでした。そして、その最終局面は、ローマ軍による数か月攻め倦んだ末のエルサレム神殿への侵入と反乱軍に対する大殺戮、神殿の崩壊と焼失、その場所に異教の祭壇が設置されるということをもって、終わります。「憎むべき荒らす者が聖所に立つとき」その時は山に逃げよ、の「山」とはキリスト教会の人々がその時に集まるように決めていた秘密の祈りの場所ことかもしれません。これらの出来事の中に、教会の人々は、人々が暗黙の裡に究極の頼りにしている太陽や月が暗くなりや星が天から落ちる、つまり世の頼るあらゆるものが滅び去らせられるという神の裁きを見ました。しかし世の人々が嘆き悲しむその時こそ、「人の子が力と大いなる栄光をもって来られる」、神の国の到来の時なのだと、だから頭をもたげよ、主御自身が語りかけるのを聞くのです。

2020年05月06日