説教 11月17日「「見捨ての宣告となお残された究極の救い」

聖書 マタイによる福音書23章 37〜39 節

わたしたちにイエス・キリストを通してご自身を現わされた神は憐みの神です。神は私たちが土の塵に過ぎないこと、神が私たちを愛し、命の息を下さらなかったら一瞬も生きられないことをよくご存じです。また人間は、神から命を与えられながら、神に背を向け自分を先に立てて立とう伸びようとする者、己の富や力に頼って生きようとする者になってしまいました。これが人類の罪と呼ばれることです。その結果、取り残された貧しい人々はますます貧しく隷属させられるようになりました。神はそのような人類を、一度は地上から拭い去ろうとされましたが、しかし憐れみ忍耐され、世代から世代へと生きのびさせてくださいました。しかし神は人類を諦めてしまったのではありません。神は人類をその罪から救わんとして御計画をもって行動を始められました。イスㇻエル民族の選びがそれです。つまりその父祖アブラハムに御自分を現わし、私はあなたの味方だと言われ、あなたはわたしのものだ、と、御自分が人間に寄り添う神であること、また彼と彼の子孫は、地上の全種族の祝福の基となることを約束されました。アブラハムからイサク、ヤコブ、ヤコブの一二人の息子たちから一二の部族が生まれ、エジプトの奴隷状態に置かれて苦しみますが、神が脱出させられるときは、大きな群れとなり、父祖たちに約束された地に定住し、ダビデの時王国の基礎が築かれ、ソロモンの時に繁栄します。すべては弱く小さく神に不忠実な群れを赦し支え導く神の憐みによるものでした。しかし富と力を与えられたイスラエルは、次第に神の愛を離れ、自分の力と富に驕り高ぶりはじめ、王国は二つに分裂して、両王国では偶像礼拝が横行し、国の中の貧しい小さき人々が顧みられない不正がはびこりました。神は、彼らの間に預言者たち起こし、我が民よ帰れ、と呼びかけました。それに対して、彼らは聞こうとせず、預言者の迫害をもって答えたので、神は大国の力を用いて、我が民の国を攻め滅ぼすと、預言者に言葉を託して語られました。そしてそのことは事実となり、北の王国はアッシリアに、その後南の王国もバビロニアに滅ぼされ、都エルサレムは廃墟となり、国の主だった人々は、バビロンに強制連行されました。しかし、捕囚の民となって打ちのめされたイスラエルを神は顧み、やがてペルシャの王の助けをえて帰還し、神殿再建がかなう道が開かれました。このように神と神の民イスラエルの歴史は、繰り返し神に背を向けて自分を見失う人間とその悲惨、そしてその人間を憐み、見捨てず、立ち帰らせんとして苦しむ神の歴史でありました。主イエスは言われました「エルサレムよ、エルサレム…お前に遣わされた人たちを石で撃ち殺す者よ、ちょうどめんどりが翼の下にそのひなを集めるように、私はお前たちを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった。」

2020年05月06日