説教 11月3日 「偽善―聖なる外側の裏に貪欲と放縦」

聖書 マタイによる福音書23章 25〜28節

神殿で民衆の前での、律法学者・パリサイ人に対する主の論難は続きます。「偽善な律法学者パリサイ人よ、あなた方は災い、盃と皿との外側は浄めるが、内側は貪欲と放縦に満ちている。盲目なパリサイ人よ、まず内側を浄めるがよい、そうすれば外側も清くなるであろう。」パリサイ派の律法学者といえば当時のユダヤ社会で、律法を守るのに特に熱心な人々であり、人一倍正しく生きることを自分にも人々にも求める人だと考えられていました。しかし、主イエスは、それは外からそう見えるだけで、その内側は貪欲と放縦に満ちているといわれるのです。聖職者・教師と呼ばれる人のこのような有様は、今日のキリスト教会にあからさまに起こっているのを見逃すわけにはいきません。二つの例を挙げます。一つはカトリック教会でここ20年来問題になっている聖職者、それも大司教とか枢機卿という地位にある人の、男女の子どもたちや修道女に対する性的虐待の事件が明らかになった、それが明らかになっても組織的にもみ消されてきた実態が明らかになり、今法王庁のもとで実態調査や取り組みが始められているということです。もう一つは、2001年に明るみにでた私たち九州教区の熊本のある教会の男性牧師が起こしたセクシュアルハラスメント事件です。彼は彼のもとでキリスト教教育主事になるための指導を受けていた女性信徒に対して、二年ないし三年にわたって、性的欲望の対象として扱う言動や行動で苦しめ続け、心に深い傷をおわせました。彼は牧師あるいは牧会・聖職者の地位を利用して聖なる装いでこのようなことをしていたのです。なぜこういうことが起こるのでしょうか。主イエスは、まず内側を浄めよ、そうすれば、外側も浄くなるであろう、といわれました。内側を浄めるとはどういうことでしょうか。それはわたしたちが自分を中心にして生きるのではなく、わたしたちのために御自分をすてて世に来て下さって、死んで甦られた御子イエス・キリストのものになるというほかはあり得ません。またそのことは、イエス・キリストにおいて、私たちと共にいて下さる生ける神との出会いと向き合いの中で、神を神として認め、その神を度外視して背いている罪のおのれを神の憐みの御手に委ねるということ、そして、もはや自分の思いのままではなく、常に神のものとして、神のみ旨を求めて生きるということです。このことによって、私たちの内側からではなく、神の側から罪の私たちが越えられ打ち砕かれて、罪の私たちが神の聖さに与かり、神の愛に満たされ、罪への傾向を持つこの体のまま、日々新たにされつつ変えられていくのです。こうして神の国の民へと訓練されていくのです。律法学者たちの過ちは、聖書の神の言葉を生ける神の言葉としてうけとらず、律法の字面を、生ける神を度外視した自分の肉の行いで満たして、己を義として誇ろうとしたことにあります

2020年05月06日