説教 10月27日 「生ける神を避け、はぐらかす人々」

聖書 マタイによる福音書23章16~24節

私たちが私たちの主イエス・キリストを通して知らされていること、その最も大切なことは、私たちであれ、だれであれ、知ろうと知るまいと、神が私たちに先だってすでに私たちに臨んできて下さっていること、それなしに、だれも存在しえないということであります。これは、気が付いてみると、これほど明白な真理はない、当然すぎるほどと当然なのですが、しかしそのことを知らされている私たちを含め、なぜか人類は皆、共にいて下さる神なしに生きよう伸びようと不可能なことを試み、、与えられたはずの力や富を自分のものと誇り、他の人より偉くなったと思いたがるのです。しかしそのことは結局は、自分を中空に浮き上がらせ虚無の中に転落させることになるのです。神はイエス・キリストを通して、そのような罪人(的外れの人)に、そのようには生きえないことを告げる裁き主として臨んで下さっています。、またそのような私たちを引き受けて、まったく新しく子として受け入れて下さる救い主としても私たちに臨んでて下さいます。またそのことを心に知らせて下さる慰め主としても臨んでくださいます。わたしたちは、その神の現実をいつも新しく、祈りの中で受け止め、互いに間でも周りの人々にも分かち合っていくように神から使命を与えられているのではないでしょうか。しかし、私たちはともすれば、この神の現実を語るのを避けてしまいます。それは、有限な私たちが神を語ること自体畏れ多いことだからということもあるでしょう。しかしそのように言って神と向き合うことを避ける口実にすることはないでしょうか。昔主イエス時代のユダヤ人も、神の名を口にすることは畏れ多いこととして、神の名を語る代わりに、神殿、あるいは祭壇を指さしたりしていました。何かを誓う時、たとえば借りたお金を返すことを誓って貸した人の信用を勝ちうるために、神の名で誓う代わりに、祭壇をさして誓う、神殿をさして誓うということがありました。ところが返せなくなった時に、自分は神殿の建物をさして誓ったので、神をさして誓ったのではないと逃げることもできたのです。パリサイ派の律法学者の間で、誓ったことは果たされなければならない、という律法の解釈の中で、このような逃げが許容され、しかしもしその指して誓う物が、神殿の黄金ならば誓いは果たされなければならないなどいう律法の解釈がなされていたらしいのです。つまり、律法が守られねばならないことと守れない現実との乖離を、律法の解釈の知恵によって埋めることをしていたのです。主イエスは、罪を裁きかつ罪人を義として立て直す神の義ではなく、人の義を建てようとすることからくるこのような愚かさと欺瞞と悪知恵を駆使した苦肉の策を風刺して、神殿をさして誓おうが、祭壇をさして誓おうが、その人は生ける神をさして誓ったのだ、誤魔化すんじゃないよ、と喝破されたのです。

2020年05月06日