説教 10月20日 「主と教会とわたし」

聖書 ヨハネによる福音書15章1〜11節

今日は礼拝後「教会とわたし」という題で、互いの教会生活や信仰について語り合う時をもとうとしていますので、それにあわせて、この聖書個所から語ることにしたいと思います。この五節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに繋がっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れてはあなた方は何一つできないからである。」は、福岡女学院の学院聖句であるので、親しみを持つ人も多いかと思います。これは女学院の創立者のジェニー・マーガレット・ギールの愛唱聖句でありました。彼女の用いていた聖書を見たことがありますが、この個所には、紫色の色鉛筆で数回スジが引いたあとがありました。彼女は30歳の若さでアメリカのメソジスト教会から派遣されて、長崎で活水女学校の設立に関わったあと、福岡で英語とキリスト教を中心に学ぶ女子の学校、福岡英和女学校を設立しました。福岡女学院の前身です。270年の及ぶキリシタン禁制の高札は取り除かれたもののなおキリスト教に対する敵意、迫害が続いていた時代です。大変な苦労があったことでしょう。この「私に繋がっていなさい、もし人がわたしに繋がっており、私がその人と繋がっておれば、その人は豊かに実を結ぶようになる、という主の御言葉がどんなに彼女を試練の中で支え励ましたことかということを思わされました。この言葉はイエス・キリストがこの世を去って父のみもとに行くべき時が来た、つまり十字架の死に御自分を委ねることになるその時が来たことを知って、弟子たちと最後の時を過ぎ越しの前日の食事をして過ごされた時に語られた説教の一節であります。その時、主は「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」と記しています。主は、ユダが自分を裏切ろうとしていることを知っており、隠しもしません.しかし主は、これを発端として、やがて十字架の苦しみと死に続く出来事のすべてを、当のユダを含め、弟子たち、そして彼を十字架につけた人々を含め、ユダヤ人と異邦人、つまりすべて罪人の救いのために父がご自分に与えたものとして、すでに祈りと決断をもって引き受けておられました。そして、これは主にとって敗北ではなく、これこそは父から与えられた力と栄光を現わす勝利であり、このことのために、御自分が神から出て来て、神に帰ろうとしていることを思われました。そのことを思いつつ主は、水を盥に汲み、ユダをも含めて、弟子たち一人一人の足元に蹲りその足の汚れを拭われました。それは主が十字架の死に至るまでご自分を低くして人類の罪とあらゆる悲惨をすべて負われ拭い去られたことを象徴しています。そしてユダが主を引き渡すために出ていくと主は、今や人の子は栄光を受けた、との決然たる言葉と共に、あの「私はぶどうの木、あなた方はその枝である、私に繋がっていなさい、実を結ぶために」というあの言葉が語られるのです。弟子たちは、この主の言葉の意味が解りませんでした。しかし主の十字架の死に直面して、自分達の弱さと罪を思い知らせられ打ちのめされた彼らに、死人の中から甦られ、勝利された主が出会って自分たちをなおも、友よ、兄弟よと招かれ、主と同じ命の中に招き入れて下さっていることを知るのです。父なる神が植えて育てた、実を結ぶようにと、主イエスなるブドウの木に繋がって命を頂いて生きる枝として私たちも生きるのです。

2019年10月31日