説教 10月13日 「不毛な伝道、的をはずした教え」

聖書 マタイによる福音書23章13〜22節

弟子たちと大勢の民衆とそしてついさっきまで主イエスと議論していた律法学者も去ってはいない、その中での、主イエスの律法学者・パリサイ人批判はいよいよ激しく辛辣になって続きます。今日の箇所は、パリサイ人たちの世界伝道(諸国民=異邦人伝道)についてです。「偽善な律法学者、パリサイ人よ、あなたがたは災いである。あなたがたは、天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする者を入らせもしない。・・・偽善な 律法が学者・パリサイ人たちよ、あなたがたは一人の改宗者を得るために、海と陸を巡り歩く。そして作ったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする」。当時、律法学者たちの異邦人・諸国民への伝道がさかんになってきていました。当時のローマ帝国は、諸国民のるつぼであり、多様な文化・宗教が混在していました。伝統の民族宗教が揺らぎ、人々は、生きる究極の拠り処を求めていました。地上のものが頼りにならないことを痛感し、目に見えない神をよりどころとしているユダヤ人の信仰に惹かれる者もでてきます。すでに聖書は、当時の共通語であるギリシャ語に訳され、教養人ならだれでも読むことができました。天と地の創造主を求めてユダヤ人の会堂(シナゴーグ)を訪れて礼拝に連なり、律法学者によって旧約のみ言葉を聞いて神を信じ、隣人愛の大切さを知り、割礼を受けてユダヤ人となって、日に三度シェマ(「イスラエルよ、聴け、われわれの神は唯一の主である。・・・あなたの主・神を愛さなければならない」とのみ言葉)を唱え、祈り、施しをする人も出てきます。このような人を改宗者と言いました。また割礼は受けないで、心で、イスラエルの神を信じを受け入れ、会堂に通い、その教えを学んで生きようとする人もでました。このような人は「神を畏れる人々」と呼ばれました。そうなると、律法学者たちの中には、積極的に異邦人伝道に打って出る人も出てきました。しかし、異邦人が割礼を受けても、ユダヤ人の共同体の中で対等には扱われず、まして、無割礼の「神を畏れる人々」は、共同体の周辺の隅っこに位置付けられ、神殿で犠牲を捧げ神の贖罪を受けることもできませんでした。だから律法学者の伝道は、ユダヤ人の諸民族の世界への勢力拡大を目的とするものでしかなく、すべての人を自分達と等しく神の国に招くというものではなかったのです。だから、それは伝道とはいうものの自分も神の国に入ろうとしないし、伝道の相手からも神の国を閉ざすことしかしていない、と主イエスは、指摘しているのです。それどころか、彼らの伝道によって割礼を受けた異邦人の間にはユダヤ人以上に激しくキリスト教会の群れを憎み迫害する者もでたのです(使徒行伝六章九節以下)。伝道とは、自分の勢力拡大、教勢拡張ではありません。それは不毛です。人々に愛をもって仕えて、神の国の到来を知らせ、神の国に招くことこそ伝道です。

2019年10月24日