説教 10月6日 「自分を高くする者は低くされ・・・」

聖書 マタイによる福音書23章1〜11節

主イエスは、神殿で、弟子たちと大勢の民衆の前で、律法学者・パリサイ人を激しく辛辣に批判されました。なぜここまで激しいのか、それは彼らが民衆の間で、偽りの権威をもって支配していたからです。民衆にも弟子たちにもしみついていた権威主義、いや私たちキリスト教会にも、この権威主義がいつの間にはいりこんではいないか、と私たちは厳しく、己をみつめさせられずにはおれません。主イエスは、言われます。「律法学者とパリサイ人は、モーセの座に座っている。だから、彼らがあなたがたにいうことは皆守って実行しなさい。しかし彼らのすることにはならうな。」 律法学者とは当時のユダヤの社会で、モーセによる神の言葉を解釈し、教える専門的家たちのことで、ラビ=先生とよばれていました。彼らはモーセの座に座って聖書のモーセの言葉を伝えます。しかしまず自分がその言葉を自分に語られた言葉として聞き促された者として語るのです。主イエスは、彼らがモーセの座に座ってモーセの言葉を語っている限りにおいては、、全て行いなさい。といわれます。心を尽くし、命をかけ、ひたすら神のみを神として、あなたの神を愛せよと申命記六章でのモーセの言葉、またあなたと同じようにあなたの隣人を愛せよ、私は主である、というレビ記一九章の神の言葉を、律法学者が語る、その言葉は真剣にうけとり行いなさい、安息日をまもれ、殺すな、盗むな、姦淫するなと十戒を彼らがモーセの座に座っていう、その言葉は真剣に受け止め、行いなさい、しかし彼らのやっていることの真似をするな、といわれるのです。なぜなら、彼らは、モーセの座に置かれた者として、自分に語られたこととして、受け取ってはいないし、実行しもしないからです。それどころか、かれらは、モーセの言葉をふりかざして、自分は実行しないくせに、あれこれ民衆に律法に命じられていることをするように求める、、苦しみ、あえいでいる人々の肩に「重荷を載せる」が、重荷をとりのぞくために、指一本うごかそうとしない、と主は言われるのです。むしろ大切なことは、イエス様自身がそうなさったように、そのような重荷を負う人々の側に立ち、共に担いつつ、そこに神が寄り添い、重荷を神ご自身が担って下さることを身をもって分かちあうことではないでしょうか。そのことを知るとき、人は神の愛を知り、神を愛する思いへと、心が広げられることが起こるのではないでしょうか。その他、主は彼らが律法を行うときは、見栄のためでしかないと言われ、自分が人々から「ラビ」と広場でよばれて、自分の尊ばれていることを見せつけたい様子とかなどを辛辣に語り、あなたがたは、先生とか教師(指導者)呼ばれてはいけない、と言われました。いかに人は、人を神のようにあがめてしまうことでしょうか。然し主はいわれます。一人の方神のみが、真の教師で、そこではあなたがたは、皆横並びに兄弟なのだ、と。

2019年10月24日