説教 9月22日 「主にあって死ぬ人のさいわい―故北島一徳兄を記念して」

聖書 詩篇90篇1〜11節、ヨハネ黙示録14層8〜13節

私たちの主にある兄弟、北島一徳兄は、横浜の施設で御子息、御息女、お孫様に看取られながら静かに天に召されました。九六歳でした。もし福岡在住のまま召されたなら、ご遺族と教会のみんなや福岡で親しかった方々と共に天に送らせて頂いたであろうと思い、このように聖日礼拝に合わせて記念することにしました。詩篇九〇篇に詩人はこう祈っています。「主よ、あなたは、世々われらの住処でいらせられる。「まだ地と世界が造られなかったとき、とこしえからとこしえまであなたは神でいらせられる。あなたは人を塵に帰らせて言われます。「人の子よ帰れ」と。あなたの目には千年も過ぎ去れば、一夜の夢のごとく、あしたに萌え出る草のようです。」北島兄の九六年の生涯といえども、永遠の神の眼からは、一夜の夢のごとし、というのです。神は私たちに命を与えられるが、あっというまに、土に帰れ、と命に限りを置かれるというのです。だから、どんなに長生きをした人でも、私たちはその方の死の前に衝撃と痛み・悲しみを覚えるのです。なぜでしょうか。詩人は言います。「われらはあなたの憤りによって消え失せるのです。あなたは我らの不義をみ前に置き、われらの隠れた罪をみ前に置かれました。」と。しかし神は私たちに取り去るための命を与えたのではありません。。創世記二章によれば、神は土の塵で人を造り命の息をその鼻に吹き入れられた、それで人は生きた者となった、とあります。いと高き天地の創造主が、己を低くして土の塵に過ぎない者に寄り添いその鼻に息を吹き入れられた、それで人は生きている、私たちが生きる各瞬間の背後には、塵なる者に命を下さる神の慈しみがあるというのです。それは人間が神の愛に応えて、神を愛し、神が人を愛し支えたようにお互いに愛し合う、支えあう、喜んで生きるためにほかなりません。ところが人は、その神の愛に背を向け、神なしに自分を神とするという不可能なことを試みる者になりました。これが人間の罪・不義です。罪の結果は死以外ではありえません。それでも神は人類を憐み、世代ごとに短い間の命を与えられました。終りの時に、人類の罪を裁き、御自身に取り戻し救うためでした。時至り、神は御子キリストを世に送り人類の罪に対する御自身の怒りを御子に負わせてこれを死に渡し、復活させるという仕方で、私たちの罪と死に打ち勝って下さいました。そして人類がみ子の甦りの命に与かって、主と共に主の兄弟姉妹、主と同じ神の子として生きる、神を愛し、互いに愛し合って新しい永遠の命を生きるようにして下さいました。まだこのことは目に見える形では成就していません。しかし、神は終わりの日に主イエスを再び送ってこのことを成就されます。主イエスを受け入れて、この終末への希望に生きてこの世の生を終わる人は幸いです。北島兄もそのようにこの世の生を生き、そして終え、主の御許に召されました。

2019年10月24日