説教 9月15日「一番大切ないましめ」

聖書 マタイによる福音書22章24〜40節

昔ユダヤの人々は、モーセによって与えられたとされたたくさんの規定からなる律法を持っており、それは旧約聖書にちりばめられています。もっとも基本的なこととして、出エジプト記二〇章や申命記五章にある十戒があり、神との関係でそれは祭司の務めや一般のユダヤ人の務め、礼拝、祈り、断食について、安息日の守り方、隣人との関係では、結婚や性について、人を殺したり傷つけたりした場合の処罰や償いなどについて規定されています。主イエスが神殿で、祭司や律法学者と議論している中で、パリサイ派の律法学者が、それらのいましめの中で一番大切ないましめは何でしょうか、と尋ねてきました。当時彼らの間でホットなテーマでもありましたので、主イエスの律法理解の程度を試そうとしのです。主イエスは答えられました。口語訳聖書で読めば、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛せよ』これが第一のいましめである。第二もこれと同様である。『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』、これら二つのいましめに律法と預言者はかかっている」と。旧約聖書全体がそこにかかっている、というのです。神への愛と人への愛、これが大切だ、ということですが、単に二つの愛の戒めが並んでいるのではなく、大切な中心は、「あなたの主なる神」にあります。主である神は、あなたの神となって下さった、だからその神を、心を尽くし精神をつくし思いを尽くして愛しなさい、ということなのです。神は、天地万物の造り主天地より大いなる方です。その神があなたに寄り添い、あなたを離れることはない、あなたを御自分のすべてを注いで、あなたの側に立って下さるというのです。しかもそれは、私たちが相応しいものをもっているからではなく、反対に繰り返し神に背いている者である、神は、その私たちの神になって下さっているのです。私たちが神を愛するというに先だって、神が私たちを愛して下さった、下さっている、愛することをやめられない、それゆえに、私たちは、神を愛さずにいることはできないということなのです。「・・・を尽くし」という言葉は、原語から「心を尽くし、いのちをかけて、私の思いが生み出した観念ではない真実生ける神を受ける霊の知性をもって」という意味で受け取りたいと思います。そして、その神は、わたしの神となって下さっただけでなく、わたしの隣人の神でもあります。私たちが出会うすべての隣人は、神からわたしに差し出され、神は私に対すると同じ愛をもって臨んでおられる神でありますから、わたしたちは、その神に突き動かされて、自分と同じようにその隣人を、その神の愛によって突き動かされて、たとえ私がその人を好きでなくて、敵対する者であっても、その人を無視でいない、愛さずにおれないはずであります。だから、愛せよ、なのです。この愛は、私の思いからではなく神から出るのです。

2019年10月24日