説教 8月25日 「『陰府に降り』ー使徒信条が見つめる深み」

聖書 詩篇139篇5〜12節

今日は、使徒信条が語る「陰府(よみ)に下り」という一句が私たちに訴えかけているところを聞きたいと思います。この一句は、使徒信条の第二項、つまり「われはその独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」という主題のもとに展開される、主イエスにおいて人類のために神がなさった、そしてやがてなさる一連の出来事を覚えて語る中に、「苦しみをうけ、十字架につけられ、死にて葬られ」に続いて、「陰府に下り」と唱えられます。つまりこの一句は、神の子の苦しみ、十字架受刑、死、葬り」と下へ下へと降りていくその極限として情熱と感動をもって語られるクライマックスであります。陰府(口語訳新約聖書では「黄泉」)とは、人が死と共に飲み込まれる希望も慰めも存在さえも断たれる深い闇に閉ざされた場所、あるいは、もっと恐ろしいことには、死んで終わりというのではなく、永遠に火で焼かれるとか蛆に食われ続けるとかと、痛み苦しみが永遠に続く場所です。聖書の証し人たちは、人がこの世で遭遇しうる恐ろしい苦悩の世界をなまなましく見つめる中から、死後の世界をこのように描いたのでしょう。それは神が神に背を向け自分を神としておごり高ぶり隣人を踏みつける人間に対する正しい怒りの裁きとして人間をそこへ落とし込まざるをえない場所とされていました。しかし他方では、神は陰府より強いお方で、陰府すらも神ご自身が御手の中におさめ給う、陰府は神に打ち勝つことなどできない、いや、神は、陰府をさえ死なせ給う、とすら語っているところもあります。だからたとえば、俺の人生は絶望そのもの、糞喰らえ、行先はどうせ縛り首で後は陰府さ、なんて呟いている死刑囚がいたとしても、人は陰府に寄りすがって自分を慰めることもできない、ということでもあります。使徒信条は、神の御子が陰府にまで降られた、ということによって何を語っているのでしょうか。それは神が、人間のあらゆる望みや慰め、存在さえも断たれる様な非情な世界にまで、御手を伸ばされ、そこに御自身の体ごと身を置き、そこをも神の領域、いやその中心とされたということではないでしょうか。全能の父なる神ご自身が、み子と共に陰府にまで降られたとするなら、み子によって父により頼む者は、もはや、死も陰府も恐るべきものではありません。詩篇一三九篇の詩人が、神に向って祈りつつ「気が付いてみると、あなたは、前から後ろからわたしを囲み、ただ驚くほかはない」と歌い、「わたしが天に昇っても、あなたはそこにおられ、陰府に床を設けても、見よ、あなたはそこにおられます。」と語る、その「あなた」なる神も「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にまで降られた」み子主イエス・キリストの神にほかなりません。慰められます。救いの主を讃美します。

2019年10月24日