説教 8月18日 コリント人への第1の手紙5章1〜10節

私たちが住んでいる地上の幕屋が壊れると、神からいただく建物、人の手によらない永遠の家が備えてあることを私たちは知っている」(一節)とありあります。地上の幕屋とは、私たちが体ごとその中にいるこの世のことです。パウロは、この世は壊れると言っています。その中にいる私たちの体・心も壊れ物です。元気であっても休まなければ疲れるし、病気や事故で倒れたり、それらで死ぬこともあり、長生きをしてもやがて死んでいきます。病や色々な出来事で苦しみ、老いて弱るときは、肉体の苦しみを覚えます。神はなぜ、人間を壊れ物としたか、聖書によれば、神はもともと人間をそのような壊れ物としてお造りになったのではありませんでした。神の像、神の栄光を現わす器としてお造りになりました。しかし、人間は神に背を向けて、自分を神として神なしに生きようとする者になったので、それに対する神の怒りの結果として、壊れ物とされたということであります。そもそも人間が神に背を向けて神なしに生きようとしたとき、自分の命の根源を自らふさいだのですから、その瞬間すでに、死んでしまっているのです。しかし、神はその人間を憐れんで、一定の期間、日々、壊れ物でありますが、命を注ぎ貸し与えていかして下さるのです、それがいま私たちが生きているということであり、その弱さから、自分の限界を知り、神をもとめざるをえないようにされているのです。やがてその命が終わります。しかし、それでも、人類は世代から世代へと、それぞれの短い命をつないでいき、地上に広がっていくことを赦されたのです。神はかくも、神に逆らい続ける人類を受け入れ忍耐されました。しかし時満ちて、神は、御子を一人の人イエスとして世に送って、イエスに私たちの罪と壊れ物としてのもろさと死を引き受けさせ、十字架の上に死なせて、そのイエスを甦らせることによって、神は私たちに知らせて下さったのです。たとえこの地上の幕屋としてのあなたの体・心が、壊れるとしても、あなたは失われるのではない、神から頂くイエスとともなる建物、すなわち、天にある人の手によらない建物が、永遠に壊れることのない命があなたのために用意されているのだ、と。しかしこの地上の建物ということで、単に私たちの心・体としての個々人のこの世の命が意味されているだけではなく、この神に背いている人類世界全体もまた意味されています。人々は、神に背いて自分中心にしか生きようとしない、それは、すでにこの人類世界が、やがて滅びざるを得ないことを意味しています。すでに、神に背いた人間の世界は、互いに背きあい、人が人に対して権力をふるって暴虐を行い、苦しめる、食いあい、滅ぼしあう世界になってしまいました。神はそのような人類世界をなおも滅ぼさずに、忍耐してこられました。人類の地域集団にルールができ国家という中枢機能が与えられることは、食い合い滅ぼしあう集団が、ぎりぎりのところで滅びをまぬかれるためであったでしょう。しかし、その国家が最近に見るように、その使命を放棄する様は、神が世が滅びようとするのを放任し、地上の幕屋に終わり裁きの時が近いことを示すのかもしれません。しかし、私たちは知っているのです。神はその時こそ私たち人類のために神から頂く永遠の家・神の国を備え給うことを。ひたすら御国に向って前進しましょう。

2019年10月24日