説教 8月11日 「神の国で着る礼服とは?」

聖書 マタ22章1〜13節

主イエスが神殿で語った天の国を婚宴に譬えるたとえ話が今日の箇所です。主イエスのガリラヤでの第一声は「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。天の国とは、私たち一人一人を愛して存在させて下さった神が王として支配して下さる、またはそのことが目に見える形となった来るべき世界のことです。人間は造り主なる神なしには一瞬たりとも存在することはできません。人間は神のものであり、そのことは各人が同じ神の者して、互いに共にいることなしは、誰一人存在しないということです。そして、人は一人一人神を仰ぎ、隣人と共に生きるように、造られています。それなのに、なぜか人間は神なしに自分を神の位置において自分を中心にして生きようとする者になってしまいました。これがいわゆる罪です。その結果人は死ぬものになり、人類世界は、人が人を、国が国を、民族が民族を、押しのけあい、貶めあい、果ては殺しあう悲惨な世界になってしまいました。神の国、天の国とは、人が、ではなく、神が王として支配することによって、高ぶる人間のおごりが打ち砕かれ、すべてのものが神の前に低くされ、人間のおごりのゆえに小さくされた人々が、神によって愛され尊厳を与えられているままに、輝かされて生きるようにされることであり、そのことが実現した来るべき世界です。イエス・キリストは、神のところからこの神の支配・天の国をもたらすために来られた神ご自身、神の御子であります。しかも神は罪に覆われた人類世界のもっと小さくされた者のところに御子を遣わされ、その十字架の死によって、人類の罪とその結果として起こる死と悲惨をご自分に引き受けて下さいました。それに引き換え神は主をよみがえらせて、人類すべての人を主の兄弟、神の子らとしてこの甦りの主に繋がらせて下さいました。こうして神は神の国を成就しはじめられたのです。それはさながら、王なる神がその独り子・王子に、罪と悲惨のなかにいる人類を妻として迎える結婚式であります。そして、御子イエス・キリストが人類の罪と悲惨を自分のものとして引き受けるかわりに御子のものであった栄光と力と義が、罪と悲惨の中にいた人類一人一人のものとされるという驚くべき交換の起こる結婚式であります。その結婚式に、神はまずは、前々からこの天の国・神の国のために選び召してあったイスラエル=ユダヤ人を招かれました。そのために僕たちを遣わされました。その僕たちの中の僕は、主イエス御自身であります。主イエスは、この結婚式の花婿であると同時に、その結婚式に人々を招く王の僕であります。しかしユダヤ人の多くは招きに応じずに、畑の仕事や商売を優先しました。あるいは結婚式への招きのために来た王の僕たちを虐待し殺しました。王は大変立腹し、この人殺しを滅ぼしてしまわれた。そして、その結婚式に、だれかれ構わずすべての人を招くように僕に命じて集めたところ、結婚式の客は一杯になったというのです。これは少数のユダヤ人と共に諸国民が、律法の行いによらず恵みによって無条件で主イエスのもとに集められたキリスト教会の広がりを意味しているでしょう。しかし礼服を着ずに来た人は縛られ、外の暗闇に放り出されたというのです。これは、招かれながら、恵みに応え、古い罪の在り方を改めようとしなかった人々のことを言っています。

2019年10月24日