説教 8月4日 平和聖日 「破れ口に立つ教会となる」

聖書 エゼキエル書22章23〜31節、マタイ5章21〜26節

今日は平和聖日です。平和聖日は1967年復活主日に、当時の鈴木正久日本基督教団議長名で公にされた戦争責任告白に基づいて制定されたものです。「世の光、地の塩である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。…しかるに私どもは、あの戦争を是認し、支持し…ました。まことに祖国が罪を犯したとき、わたくしどもまたその罪に陥りました・・・心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主に赦しを願い、・・・アジアの教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に、心から赦しを請う次第であります」とあります。あの戦争とは、天皇を神として拝んでいた私たち日本が、アジアの盟主として支配しようと夢を描き、アジア全土に軍隊を展開し、ついには米・英・蘭の連合国との戦争に発展して最後はアメリカの圧倒的な力に打ち負かされ、その間アジアの人々3千万人が殺され、日本人260万人が命をおとし、国土が瓦礫と灰燼に帰したあの戦争です。
ご一緒に読んだエゼキエル書の箇所で、預言者は、神から語れと託されて、王国の王や貴族たちの民衆への無責任と搾取を責め、祭司たちの聖なる神のみ言葉に背を向け、人の手になる決まりきった祭儀の言葉へとこれを解消し俗化し、俗なるものに堕した祭儀を聖だとして物々しく行う、他方それに並べて、バアルなど周りの強国の偶像にも物々しく捧げものをして何ら恥じないという礼拝の宗教行事化を責め、「破れ口に立たず」に「平和でないのに平和を告げて」人々の歓心を買う預言者の神への不誠実を責めました。そして、それらのエリートだけでなく、一般庶民についても「国の民は隣人を虐げることを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者を掠め、不法に外国人を虐げる」と彼らもまた神に背を向けて、隣人を苦しめる有様を神から示されて語るのです。そして最後に、このようなユダの人々に私は我が怒りを注ぐ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼす、と神は言われると。そしてそれは、時を経ずして現実となったのです。ユダ王国は、BC597年と571年バビロニアの攻撃を受けて滅亡し、主だった人々は奴隷としてバビロンに連行されてしまいました。
エゼキエルが告げた神の言葉を聞いて、明治からあの戦争の破局に至った歴史を顧みる時、その破局は、そもそもの明治の始めに潜んでいたことを思わざるを得ません。それはつまり、天皇を神としてそのもとに一丸となって富国強兵という掛け声のもとに、小さい者たち、外国の人々、とりわけアジアの隣人を踏みしだいてその上に君臨しようとし、その盟主になろうとした帝国主義的な野望の行きつく先があの破局であったということです。エゼキエルが言うようにすべての人にその責任があり、神の言葉を託されながら告げず、世に同調していたキリスト教会の責任は神の前に最も大きかったし、その責任は今もなお、果たされたとはいえないといわねばなりません。
戦争責任告白は、繰り返しなされつづけねばならないだけでなく、現在のたとえば今、土壇場まできてしまった韓国との関係に対して、神の前で態度をとるうえで踏まえるべき大切な視座を与えるるものであります。「自分を訴える人と共に道を行くとき、その人と途中で仲直りをしないなら、最後の1コドラントを払うまで獄から出てくることはできないことになる」というマタイによる福音書の上記当該箇所の主の言葉は、まさに今私たち日本人が、韓国との関係において陥っている地獄をそのまま言い表している感があります。

2019年10月24日