説教 7月28日 「心に信じて、口で告白する」

聖書 ローマ10章5〜13節、申命記30章11〜18節

 本年3月まで16回にわたって、使徒信条の一句一句をその土台となる聖書の言葉から解き明す説教を行ってきました。本年度も月の終わりの日には、前とは違った形でではありますが、できる限り使徒信条の解き明かしを続けたいと思います。クレド(われ信ず)と神に向って叫ぶ使徒信条の言葉が、礼拝の中でお仕着せとか口先の形式主義ではなく、心の底から湧き出る喜ばしい生きた信仰告白として唱える日が来ることを待ちつつ。
 今日は、使徒パウロが、ローマの教会に書き送った手紙で語った、イエスは主なり、と心に信じ、口で告白することは、外からもってきたようなことではなく、私たちが口に出す前にすでに、あるがままの私たちの心にあり、口にある言葉なのだ、と語っている個所から、み言葉を聞きたいと思います。
 パウロはもとの名前はサウロと言い、文字に書いてある律法を行うことだけが神の救いに与かる道だと固く信じている律法学者でした。律法を守れない取税人や遊女は、呪われている、その呪われている人々に神の祝福を告げるイエスが、呪いの十字架につけられたのは、当然だと思っていました。だから、そのイエスを救い主と告白し宣べ伝えるキリスト教会の群れは、死刑にすべきだと思って迫害していました。ところが、迫害のためダマスコの町に来ようとしたとき、十字架につけられたイエスが彼に現れて彼の名を呼んで語りかけます。「サウロ、サウロ、なぜあなたはわたしを迫害するのか。」彼は、その場で倒れ盲目になり、アナニヤというクリスチャンに目を癒され、立って歩き始めたときは、彼は180度変えられて、十字架につけられたあの方こそ、ユダヤ人だけでなく全世界のすべての人の救い主、と宣べ伝える者になっていました。それ以来彼は、イエス・キリストの福音を、当時のローマ帝国の東半分のほぼ全地域の各都市に広め、主を信じて罪赦されて集まるユダヤ人と諸国民からなる教会を設立しました。こうして神を知らなかった地上すべての種族が、イスラエル人の神を知り神の祝福に共に与かるためにアブラハムとその子孫イスラエルを選び召された神の目的は成就し始めたのです。
 ところがそのイスラエル=ユダヤ人は、また同時にパウロの福音伝道に最も激しく敵対し彼を迫害した人々でありました。なぜイスラエルは、成就し始めた救いに与かることができないのか、それは彼らは神に熱心であるつもりで、律法を振りかざして自分の義を建てようとし、神の義に従わなかったからだ、とパウロは言い、そもそも彼らが自分の義をたてるために金科玉条のように用いているモーセの律法の言葉そのものもまた、実は、一人一人からかけ離れたものではなく、一人一人の近くに来て一人一人を生かして下さる神の愛の言葉ではなかったか、そして、その言葉は、「あなたの心に既にあり、口にある」とモーセは言ったのではなかったか、そこには、すべての人のために十字架の呪いを引き受けることによって、すべての人から呪いを取り去って、よみがえって天に昇り、すべての人を神のもとにおいて祝福に与からせられたキリストがモーセと共に語っているのだというのです。そのキリストの愛から、除外される人は一人もいません。すべての人の胸にあるその言葉は、「イエスは主なり」という信仰の言葉にほかならない、それはすでにあなたの心にあり口にある、とパウロは言うのです。福音と律法は別々のものではありません。主の恵みの福音は、私たちの心に湧き上がる感謝と喜びをもってなす神と人への愛を現わす行為へと促す真の律法でもあります。イエス・キリストは、律法の終わりとなられたのではなく、その本来目指していた内容の成就なのです。

2019年10月24日