説教 7月14日 「黙して悔い改め主に従う」

聖書 マタイによる福音書 21章23〜27節

主イエスはエルサレムの神殿で、祭司長や律法学者に対して、群衆の見守る中、いわばゲリラ的に教えられました。主は彼らのおごりを問い、反発されながらも神の真理の側に巻き込んで行かれます。「あなた方はどう思うか、ある人に二人の息子がいた。兄のところに行って言った。「子よ、ブドウ園に行って働いてくれ。」すると彼は「主よ、私にお言いつけなら」と答えたが、行かなかった。また弟の所に行って同じように言った。彼は「いやです」と答えたが、後から心を変えて出かけた。この二人のうち、どちらが父の望み通りにしたのか。」当然、弟です。祭司長たちも、つい弟です、と答えました。すると主は言われました。「取税人や遊女の方が、あなた方より先に神の国に入る、彼らはあの弟のようにバプテスマのヨハネが義の道を説くのを聴いて悔い改めたが、あなたがたは、義人ぶって、悔い改めないからだ。」父のブドウ園で働くとは、どういうことでしょう。私たちは皆、神に愛され存在を与えられた者ですから、それに応えて、存在かけて神を仰ぎ神を神として認め愛し、神に愛された自分を肯定し大切にし、また同じように神に愛され存在をに与えられた隣人を大切にし、仕えあって生きるようされています。私たちが生きるとは、そのようにして日々励むことであります。これが、人間が神のブドウ園の木々が実を結ぶように働く私たちの日々の営みにほかなりません。それこそが人としての自然な生き方なのです。ところが人はなぜかそのように生きようとはせず、わざわざ神に背を向け、神なき架空の自分を中心に据え、神のように偉くなりたい、大きく強くなり、豊かになりたいと思い、その強さや大きさを誇る者になってしまいました。それが得られれば一時的には充実しているようでも当然ながら、心の奥に虚しさが広がっていきます。するとその虚しさを埋めるために、様々の神でないものを神として拝む偶像礼拝がはじまります。人類は、どの民族も太古から神を知らず、偶像を拝んできています。。イスラエルの父祖アブラハムもそのような人類の一人でありましたが、神は彼に臨まれ、彼を呼んで神のブドウ園で働き、神の証しとなり神を知らない諸民族が神を知って祝福に与かる基となるように使命を与えられ、イスラエルの父祖となりました。しかしそのイスラエルもまた、神の名を唱えていながら、心は神に背き、偶像を拝む者になってしまっていました。イスラエルがまず心を入れ替えなければならない、主イエスは、そのイスラエルの悔い改めと人類の救いのために遣わされ来られました。イスラエルの祭司たちは義人ぶるだけで働かなかったが、実際に神のブドウ園に行ったのは、彼らが汚れた者たちと蔑んでいた取税人や遊女たちだった、この人々に続いてあなた方も心を入れ替えよと、主はいわれたのでした。

2019年10月24日