説教 7月7日 「何の権威によってこれらのことを」

聖書 マタイによる福音書21章23〜27節

主イエスは、人類の罪と向き合い十字架の死と死人の中からの復活によって、究極の勝利を与えられたエルサレムに入城され、神殿の外庭で鳩を売る人や両替商を追い出され、この開かれた場所を穢れた場所としてそこでの営業活動から利益をむさぼる神殿当局者に抗議されました。その翌日には、主は神殿の中に入ってきて、祭司たちや律法学者たち、長老たちに向って「教える」という大胆な行為に出られていたのです。当局者たちは激高して主に問い迫ります。「何の権威によってこれらのことをするのか、だれがお前にそうする権威を授けたのか。」。さて主イエスはどのように答えたでしょうか。「神の権威によって」と答えると、神を冒涜する者として逮捕される口実を与えたでしょう。メシア、人の子だ、といえば、ローマ帝国に反逆していると訴えられたでしょう。主イエスはその手には乗りませんでした。主は静かに、激高する彼らに対して問われました。「私も一つだけ尋ねよう。あなた方がそれに答えてくれたら、わたしも何の権威によってこれらのことをするのかを言おう。バプテスマのヨハネはどこから来たのか。天からか、人からか?」バプテスマのヨハネは、ユダヤの人々に、神の怒りの裁きの時が来たことを告げ、悔い改めの徴としてバプテスマを受けることを宣べ伝え、多くの民衆の心を捉えていました。祭司や律法学者という当時のユダや社会のエリートすらも、民衆の手前の建前としてヨハネを信じたふりをして洗礼を受けに来たくらいでした。ここにいた祭司長や長老たちも、主イエスが彼らに、このヨハネは天からか、人からか」と問うたとき、彼らの本音としては、バプテスマのヨハネを信じてなかったので、「人からだ」と言いたかったでしょうが、民衆が怖くてそう答えられませんでした。だからと言って、「天からだ」ということもできません。そう答えると、「ではなぜ、お前は信じなかったのだ、と逆に問われるであろう。」それで「知らない」と答えました。すると主イエスは、答えられます。「私も答えられないね。」しかしここで主が答えなかったのは、罠を逃れるためだっただけではないでしょう。何の権威に主イエスは立っていたか、父なる神の御心にただひたすらに従っておられました。神の権威によったのです。しかしそうは答えられず、沈黙されました。それはむしろ、主が父なる神の権威によってすべてのことをしているのは当然過ぎるくらい当然のことであったからです。本当に父なる神に導かれているなら、ただ御心に従うだけです。それで己を権威づけたり弁明したりすることは、不要であり、有害です。その上主イエスが父から頂くこの権威は、祭司長たちの思い描くような上から目線の高ぶる権威とはまったく違って、自ら己を低くして他者に仕え、他者をその他者に仕えるようにと人を導く権威なのです。

2019年10月23日