説教 6月30日 「世に挑む主の祈りと戦い」

聖書 マタイによる福音書21章12〜22 節

今日お読みした箇所は、主イエスがご自分の死と復活を遂げるエルサレムに入られた最初の日と翌日の朝の出来事を記したものです。主イエスは、休む間もなく、早速エルサレムの神殿の境内に乗り込まれ、そこで鳩を売り買いしている人々や両替していた人々に実力行使をなさいました。境内とは神殿の外庭のことです。ユダヤの祭司たちは、礼拝が行われる建物の中及び中庭を聖なるユダヤ人のための神聖な領域として、隔ての壁で外庭から区別して、世界の他の諸国民=異邦人とユダヤ人であっても「穢れた」「地の民」・「罪人」された取税人や遊女たち、病気や障害を持つ人々が、その壁の中に入ることを禁じていました。そしてこの外庭の部分では商売をすることができるとされ、そこで礼拝に必要な鳩を売る人や両替商を入れていたのです。鳩は、高価な牛や羊の代用の犠牲として認められたものだったから、両替商を入れたのは、神殿で捧げる硬貨は、世に流れている「穢れた」硬貨ではなく、神殿で通用する「聖い」硬貨のみと決めて、両替させていたからでした。そして彼らは、これらの商売に対する高いリベートを自分たちの収入としていたのです。だから、主イエスが、そこで鳩を売る者たちを追い出し、両替商の机をひっくり返したのは、その背後のユダヤ人社会を統治していた祭司や律法学者など権力中枢の人々に挑まれたのです。主イエスはその時、イザヤ書56章7節の言葉を引用してこう叫ばれました。「こう書いてあるではないか!『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところがあなたがたは、それを強盗の巣にしている。」もとのイザヤの言葉では、「すべての民の祈りの家」となっています。この「私の家」には、神殿の外庭も含まれます。否、神殿の外庭こそ、主イエスにとって、神が臨み給う聖なる場所でありました。なぜなら、神殿とは、天と地とすべての者、すべての人を慈しん造り給うた神、天と地に満ち満ちておられるその方が、特に地上の低みに臨み宿って下さる場所であるからです。そこでこそ、地上の全ての人が、罪赦されて集まり、祈り願をなし、感謝して神を仰いで礼拝をするように招かれている場所なのです。だから主イエスにとって、貧しい人々も病める人々も、すべての人が互いに出会い集まるこの神殿の外庭こそは、神の家であり、「祈りの家と唱えられるのでなければならない」のです。ところが、彼らの「神殿」は、神からも人間からも、自分を閉ざして、口先だけ神の名を唱えて、尤もらしい通り一遍の儀式を行いながら、高みに立って人々を支配し、その裏では、あくなき所有欲を満たさんとして、ぜいたくな生活をしている、まさに強盗と化した聖職者たちの巣窟になっている、と主イエスは言われたのです。.私たち教会も、この主の言葉の前に、姿勢を正させられずにはおれません。

2019年10月23日