説教 6月2日「聖霊降臨の約束を信じて」

聖書 使徒行伝1章6節〜14節

わたしたちは、洗礼を受け、信仰告白をしました。私たちは主イエス・キリストの父なる神を信じています。また私たちの罪にもかかわらず、その私たちのために神は御子イエス・キリストを送り、その十字架の死によって私たちの罪を取り除き、主イエスを復活させて、私たちがその命に与かることを明らかにして下さったと信じています。しかし、私たちをそのことを見ているわけではありません。然し信じているのです。信じるとは、本当かどうかわからないけれど建前としてそういうことにしておくということではありません。見えないこと、考えられないことだが、しかし、わたしたちに見える者、考えられるもの以上に確かな真理として私たちに迫ってくるものをそのままに受け入れることが信じるということなのです。どうしてその信じるということが私たちに起こるのでしょうか。それは、目に見えないものであっても、目に見えない神様ご自身が、み子・主イエスと共に私たちにご自身を現わして下さることによる外はありません。弟子たちの場合もそうでした。死人のなかから復活して弟子たちに出会われたとき、弟子たちはそれが主だと信じなかったのです。マグダラのマリヤは、その人を墓の番人と思いました。しかし、主が背後からマリヤを呼んだとき、彼女はそれが主だと気が付いたのです。マリヤは、落胆している弟子たちに、主は生きておられると知らせましたが、誰も信じませんでした。その信じなかった弟子たちのうち二人がエルサレムから田舎に逃げようとしましたが、その弟子たちに復活の主は出会われ、一緒に歩いて下さいました。弟子たちは、その人がただの旅人だと思っていました。その様な弟子たちに主は四〇日にわたって繰り返し出会われましたので、弟子たちは主の復活をもはや否定することはできず、主の復活を信じて歩むことを通り越して、権力を持つ人間の横暴が跋扈するこの罪の世の終わりが直ちに来る、イスラエルに神から約束された神の国が打ち立てられる時がもうすぐなのだ、と期待に胸を膨らませたのです。しかし、主は言われました。その時は今すぐに来るのではない、そうではなくて、神の恵みの世界は、聖霊があなたがたに臨むという形で、つまり目に見えるかたちではなく目には見えないがあなたがたの心に神ご自身が、み子主イエスと共に臨み、目にみえる何ものよりも確かなこととして示されると言われるのです。その時あなたがたは力を与えられ、わたしの、つまり主の復活の証人となる、主イエスによって神が下さる恵みの世界を証しする者となるというのです。私たちがたとえ信じない者であってもその私たちにこのように神は聖霊として心に臨んで下さり、私たちに、復活を信じない者から信じる者に変えて下さるのです。そのために私たちできることは祈ることだけなのです。

2019年06月18日