聖書 使徒言行録 17章12節〜34節
今日は、使徒行伝の中のパウロが、アテネというギリシャの伝統的な宗教・哲学・思想の中心地でギリシャ人たちに語った言葉から、使徒信条が「全能の父、天地の造り主を信ず」とはどんなことかを受け止めたいと思います。パウロはひょんなことでアテネに滞在することになりましたが、手で作った神々への礼拝がさかんに行われているのを見て、憤りを感じ、ユダヤ人の会堂だけでなく広場でだれかれなく相手にして議論し始めたのです。人々はパウロの語ることの新奇さに興味をもち、彼をアレオパゴス(議事堂・講義所)に連れて行き話させました。それが今日のパウロの話です。「アテネの人たちよ、皆さんは宗教心に富んでおられる」それも半端ではない「と私は見ている。実は道を通りながら、あなた方が拝むいろいろなものをみているうちに、『知られざる神に』と刻まれた祭壇があるのに気が付いた」と。アテネの人々は、自分達が知っている神々だけでは満たされず、自分達が知らない神もいるのかもしれないと思い、その「神」にも花輪やいけにえを捧げていました。神々をおがんでも、おがんでも、心の底に満たされないがあったのでしょうか。パウロは、その心に渇きに向って語ります。「あなたがたが知らずに拝んでいるものを今知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物を造った神は、天と地の主であるのだから、手で造った宮にはお住みにならない。また何か不足でもしているかのように、人の手によって仕えられる必要もない」と。その神はわたしたち人間の描く観念となったり、まして描かれたり、像として造られたりされたものではない。私たちの思いに先だち、いや存在にも先立ち、万物に先だってすでに始めにおられる方、いつも新しく、私たちの存在や働きに先だって、他の者と共にと私たち自身をも存在させている方なのだ。だから、その方は、「人間が造った宮の中に住んでいるのではない、また人の手によって仕えられる必要もない」その方は、わたしたちが信ずるからではなくて、信じようと信じまいとすでに、生きて働いておられ、逆に「その方こそがすべての人々、私たちに命と息と万物とを与えて」下さり、「こうして、人々が熱心に追い求めて探しさえすれば、神を見出さるようにしてくださった」と。「事実、神はわたしたち一人一人と遠く離れておいでになるのではない。」われわれは神にうちに生き、動き、存在しているのだ」と。それなのに、「その神を人間の技巧や空想で、金や銀や石などに彫り付けた者と同じように考え、それに仕えるというの は、おかしいのではないか、神の子としての尊厳を、卑しめることになるのではないか、と問いかけるのです。信仰とは、私に先だってあり、造り主であり給う、見ることも思い描くこともできないその神と向き合い、手放しでその神に信頼することなのです。