説教 5月19日 「主よ、わが目を開けてみさせ給え」

聖書 マタイによる福音書20章29節〜34節

主イエスが、長い旅の目標地エルサレムの間近に来てエリコを通過しつつあったとき、道端に座っていた二人の盲人が主に向って叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」主についてきていた群衆たちは、彼のあまりにも突飛に見える行動を抑え黙らせようとしました。しかし彼らは、叫ぶことをやめなかったといいます。主は気が付いて立ち止まり彼らを呼んで、「何をしてほしいのか」と尋ね、二人は答えます。「目を開けていただくことです」主イエスは彼らを深く憐れみ、その目にふれました。すると見えるようになったのです。目が見えないことはつらいことです。人は一人で生きるのではありません。神と共に、また神が造られた世界特に周りの人々と、受け止めあい、支えあいつつ生きるようにと造られています。目もそのために与えられています。その目の不自由は生きづらさに繋がります。しかし、この二人の盲人は、かつて預言者イザヤの口を通して、こう約束して下さった神の恵みの御支配の時起こることを告げる言葉に励まされていました。「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は、報いをもって来られらる。その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は聞こえるようになる。」そして、その神の御支配は、神がユダヤの国の基礎をその王によって築かれたあのダビデ王の出た「エッサイ」という根っこから新しく生まれる王、「ダビデの子」を神が再び送って下さることによって実現すると約束されていました(イザヤ書11章)。彼らは、主イエスの中にそのような神の約束の成就を見たのです。そして事実、主イエスはそのような方として来られた方でありました。誰一人彼らの目が見えないつらさからの叫びがわからない中で主イエスは、彼らの苦しみをご自分の内臓が痛むほどに受け止め、彼らの目に触れ、あふれ来る神の全能の恵みを注いで目が見えるようにして下さいました。しかしこれはまだやっと彼らに示された恵みの世界の兆しにすぎません。彼らに示された神の恵みの世界は、すべての人のものになっているでしょうか。否。彼らに示された神の恵みは、彼らの前に立ちはだかっ人々には、閉ざされたままであったのです。彼らは、道端に座っていた彼らのつらさも悲しみも見えていなかった、彼らのような悲しみの中にいる小さい者たちに注がれる神の憐みも見えていませんでした。盲人が目が見えていないのではなく、彼らこそが、目は開いているようであって、最も大切な神の恵みに対して、心の目は見ていなったのです。主の弟子たちも、主イエスが今エルサレムに向ってこられ、やがてその地で苦しみを受けられることが、神に背くわたしたち全人類が神の恵みの栄光の中に取り戻される贖いのため、勝利のためなのだ、ということが見えていなかったのです。

2019年06月18日