説教 5月12日 「自分を与えて仕える者になる」

聖書 マタイによる福音書20章17節〜18節

主イエスは、御自分が神の支配をもたらす神から遣わされた世界の王であることが弟子たちの間で知られると共に、御自分が、今エルサレムに行って、受ける苦難と死について、そして復活についてあからさまに語り始められました。弟子のペテロは、それを初めて聞いた時、神の子、キリストとあがめる主がそんな目にあうことを恐れて主を引き留めましたが、主は「サタンよされ、わたしの邪魔をするものだ」と激しくこれを退けられました。「人は命あってなんぼ、死んだら元も子もない」というのが、自分中心の肉なる私たちの思いです。だから私たちはつい自分の命にしがみつき、しかし死ぬのです。私たちは結局「元も子もなくなる」人生を歩んでいるのでしょうか。そうではない!ということが、明らかになるために、永遠の父なる神は、御自身の永遠なる御子にわたしたちと同じ死すべき肉体を取らせてこの世の送られたのです。そして私たちの神に歯向う罪とその残酷・悲惨さを、十字架の死という形で主に負わせて私たちから、その罪と悲惨を取り除き、主を永遠の命に甦えらせ、その命にわたしたちをも与からせてくださったのです。全身まひの体になって、このことを知らされた星野富弘さんは絵筆を口にを咥えて書いた花の絵にそえてこう書きました。「命が一番大事だと思っていた時は、生きるのが苦しかった。しかし、命より大事なものがあると知った時、生きるのがうれしくなった」と。命より大事な者、それは御子イエスによって永遠の命にわたしたちを預からせて下さった神です。主はこのことのために来られ、私たちのための贖いとなって命を注ぎ血を流してくださいました。それは御子が父から与えられた使命であったのです。さて、今日の箇所で、主イエスは三度めにご自身の受難を弟子たちにこれまでになく具体的に知らせておられます。それ対して、今回ヤコブとヨハネとその母に現れた弟子たちの反応は、主の死への恐れとは違っていました。むしろ主が死人の中から復活して、この世の支配を打ち破り世界を治める王になり、自分達も主のそばで右大臣左大臣として高い地位を得て輝くという夢を抱き、誰がその地位につくかを争っていました。それに対して、主は言われました。君たちは自分が何を求めているかわかっていない。君たちは、わたしの苦しみを共に味わうことができるのか、と。この世の王たちは、民らを自分が彼らの主であるかのように足で踏みにじり権力をふるっている。しかし、あなた方の間ではそうではない。かえってあなた方の間で偉くなりたい人は仕える人,僕にならなければならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人々の贖いとして自分の命を与えるために来たのと同じである、と。弟子たちは神の国にとんでもない夢をみていました。

2019年06月18日