説教 5月5日 「憐み深い雇い主」

聖書 マタイによる福音書20章1節〜16節

神さまは、朝早くから、神の支配をいよいよ実現しようとするその日その日が明けそめるとさっそく、ちょうどブドウ園の持ち主が日々朝早くから、一日一デナリの約束をしてブドウの木を育て実らせるために働く人を雇う時のように、神の支配の実現のために自分と共に働く人を求めて、出かけていく、そして、人を見つけるとさぁブドウ園で働きなさい、と言ってブドウ園に送り出していくというのです。このブドウ園とは、神に背を向け神を知ろうともしないこの世の只中に神はご自身の恵みの支配を実現しようとしておられる、その目には見えない神の支配の場そのもののこと、そして今神の群れ、イエス・キリストの群れとしての教会とは、そのような場に立つ群れであります。私たちはその労働者であります。神はまず朝早く夜明けと共に労働者たちをご自身ブドウ園に送ったそのあと、午前9時、昼の12時、午後3時、5時にも「誰も雇ってくれない」と広場で空しく立っている人を見て、さぁ、あなたも私と共に働きなさい、ブドウ園に送り出す。何もしていないでただ立っていた人とは、神の愛も、神の国が来ていることも知らずにも背を向けたまま、世に流されている人々のことです。ただその人々は、、そのことに虚しさを覚えて、確かなよりどころをもって生きる真実の人生を探し求めていました。神がイエス・キリストを通してそういう人に出会って下さって、御自身の支配という確かな場においてその実現に仕える働きへと送られるのであります。そして日が沈むころになって、主人は、今日の働きはこれまでと言われ、賃金を支払うために管理者に命じ、労働者たちを呼び集め、賃金が払われるのです。最後に来てやっと一時間働いた人が、まず1デナリもらい、みんなもらったのは同じ1デナリでありました。朝早くから働いた人は、自分はたくさん働いたから、もっと多くもらえるはずだ、と思ったけれども、同じ1デナリだったので文句を言いました。「この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました」と。すると、主人は答えた、というのです。「友よ、あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらっていきなさい。わたしは今最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ。」みなさん、このブドウ園の主人のなさり方についてどう思われますか。働きは違うのに同じ賃金というのは、不公平だと思うでしょう。しかし、神のブドウ園で働いて神から頂くものは、働きの量や質に対する見返りとしてではなく、神の前には極小の働きに対してただで豊かに注がれる必要な恵みとして与えられるのです。私たちは他の人々と共にその同じ一デナリをもらって神と共に働く恵みにあふれた今日の一日に感謝するのです。

2019年06月18日