説教 6月18日 「婚礼の客・喜びの証人」

聖書 マタイによる福音書9章14~17節

この間、安倍政権がいわゆる「共謀罪」法案を、多数を頼んで、強引に通してしまいました。テロなどの暴力犯罪の実行前の準備段階で処罰するものだというのですが、時の政府に反対する思想や言論や行動を監視し、委縮させるものではないかという疑念が解けないままです。いや、そのことをこそ狙っているのではないか、思われてしまうのです。それと同時に政権による国家の私物化、腐敗が表れてきて、国会議事堂前をはじめ、沖縄など多くとのころで、人びとが集まり、人間の尊厳、自由、平和、人権、連帯について生き生きとかたりつつ、反対の声をあげました。主イエスがユダヤの世に現れたときの民衆も、時代の悪に対して、無関心ではなく、色々な思いを持っていました。神の選びの民として誇りをもっていた彼らは、異民族ローマに対して抵抗感をもち、その傀儡であったヘロデ家を嫌悪していました。ユダヤ人はその神への敬虔の行為として、決まった時に断食を行いました。それは、ユダヤの歴史の中で、神の怒りの裁きによって破局に陥った時を覚えたり、あるいはモーセを通して神から律法を授与された時を覚えるものでありましたが、彼らは断食によって、神の前に自分をうち叩き、己の罪を覚え悲しみを現わしたのです。中でも、洗礼者ヨハネは、時代の悪に対して、神の怒りの裁きと神の支配する新しい時をつげました。大勢の民衆がヨハネを慕って集まり彼の告げる悔い改めの洗礼をうけました。罪の自分を悲しみうち叩く断食も、洗礼と共に来るべき新しい時に備えるものでありました。もしヨハネが今の日本にいたら、彼も国会の前で、神の怒りの裁きを告げ、人びとに悔い改めを迫ったでしょう。主イエスは、このヨハネに最大限の敬意を惜しみませんでした。しかし主イエスの群れは、世に対する姿勢、世と自分の罪の悲惨への悲しみ、悔い改めの思いを共有しつつも、様子がまるで違っていました。彼らは、ユダヤの敬虔な人ならすべきはずの断食をしなかったのです。むしろ彼らは、共に祝宴を催しこの罪の世のただなかに神の国の恵みが全ての人に、この世のすべてのもの、すべて罪の世の悪しき権威や力の枠組みを突き破る力をもって注がれていることの喜びを分かち合い、広げていきました。だから主イエスは、この弟子たちのことを、神の子が、花婿として来て、罪の人類を花嫁として迎える婚礼の客、その新しい時の喜びの証人なのだ、と言われたのです。
私たちも、この世の悪しき権力や権威に向き合うとき、人間の罪に対して神の恵みの支配が満ち満ちる勝利の証しでありたいと思います。とても喜んでなどできない世界の中で、なお「人知れず微笑まん」という言葉を残した、1960年6月15日、国会議事堂前前の反安保の戦いで命を落とした樺美智子さんのことを思い出します。

2017年09月12日